内村航平を支える20年来の親友「ひろ」 「運命感じる」新たな夢へ

2017年05月07日 10:00

体操

内村航平を支える20年来の親友「ひろ」 「運命感じる」新たな夢へ
知り合ってから20年、内村航平と佐藤寛朗は同じ夢を追う Photo By スポニチ
 佐藤寛朗が差し出した名刺には「リンガーハット 体操競技部 監督」と記されていた。「肩書は“監督”なんですけど、自分としては“コーチ”という感覚が強いんですよね」。さて、「佐藤監督」と書くべきか、「佐藤コーチ」と書くべきか。少しの逡巡(しゅんじゅん)の後に言った。「コーチでいいですよ」。だから、当欄では「佐藤コーチ」と表記する。
 体操界初のプロ選手となった内村航平にとって、必要不可欠な存在である。

【出会いは20年前】

 内村の1学年下の28歳に、記憶をたどってもらった。「初めて会ったのは僕が小学2年の時だったと思います」。20年前の97年夏休み、佐藤コーチが在籍していた東京・朝日生命での合宿に、内村が地元の長崎から参加した。同じ班で約2週間、汗を流し、すぐに意気投合。小学校の低学年同士、2人にまだ上下関係の概念はない。佐藤コーチは内村を「こうへい」と呼び、内村は佐藤コーチの名前の寛朗(ひろあき)から「ひろ」と呼んだ。

 夏が終わって離ればなれになっても、交流は続く。「ジュニアの時は僕の方が強かったんですよ」と笑う佐藤コーチは中学2年の03年、全日本ジュニアの個人総合で2位。翌年、中学を卒業した内村は上京して東洋高に進学し、憧れの塚原直也氏がいる朝日生命に入った。もちろん、そこには佐藤コーチもいた。同年、「ひろ」は「こうへい」よりも早くナショナル合宿に参加する。「合宿って、どんな感じ?」。まだ代表レベルには程遠い内村から、電話がかかってきたこともある。

【輝く内村の陰で】

 高校卒業後、内村は日体大へ、1年後、佐藤コーチは明大に進学。日体大2年時の08年、内村は北京五輪の個人総合で銀メダルを獲得した。09年には世界選手権で金メダルし、連覇ロードがスタートする。「こうへい」がまぶしいスポットライトを浴びる一方、「ひろ」は左手首の骨折など故障に苦しみ、体操選手として暗闇の中にいた。

 11年、「ひろ」に転機が訪れる。オーストラリア・ブリスベンに拠点を移していた朝日生命の大先輩、塚原氏をサポートすることだった。

 現地に帯同し、塚原氏の練習などに付き添った。そんな中、芽生えた「いつかコーチになれたらいいな」という思い。12年に明大を卒業すると朝日生命に入社し、オーストラリアと日本を往復する生活を送った。佐藤コーチの現役最後の試合は13年11月2日。全日本団体選手権の予選で、得意だった床運動と鉄棒で演技した。

【運命を感じた日】

 13年で朝日生命を退社し、14年からブリスベンでコーチ修行を始めた。語学学校に通い、体操クラブでのアルバイトで子供たちを指導した。「最初の1年はホントに苦しくて、濃い1年でした」。オーストラリア国籍を取得していた塚原氏を支え、16年リオデジャネイロ五輪出場を夢見ていたが、代表入りはならなかった。

 塚原氏は16年3月に現役引退を決断。リオ五輪後の8月下旬にオーストラリア・メルボルンで引退セレモニーが行われた。佐藤コーチは現地で、塚原氏の感謝のスピーチを通訳。翌日、自宅があるブリスベンに戻ると、内村から連絡がきた。「プロになろうと思っている。そうなった場合、ひろにコーチに付いてほしい」。塚原氏との夢が終わったタイミングで、新たな夢が動きだした。「今考えると、運命を感じますね」と佐藤コーチは当時を振り返る。

【敬語にチェンジ】

 突然のオファーに、佐藤コーチは即答を避けた。オーストラリアに移住して、3年足らず。「簡単に日本に帰る選択はしたくなかった」。悩む日々。日本は秋へ、オーストラリアは春へと季節は進む。「僕がコーチを断ったら?」。佐藤コーチが聞くと、内村は「本当に、ひろしかいない」と答えた。「そこまで言ってもらえて、凄くうれしかったです」。覚悟を決め、年末に帰国した。

 コーチ就任に伴い、「こうへい」という呼び方は「航平さん」に変わった。「親しすぎると支障が出ると思うんで、敬語にさせてください」。佐藤コーチの申し出に、内村は「やだ」と渋ったが、今は体育館の内外で常に敬語を使う。逆に内村は、佐藤コーチに願い出た。「金メダリストと思わないでくれ」。世界一の選手に対して抱きがちな遠慮は必要ない。言葉遣いを変えた一方で、以前と同じ何でも言い合える関係は維持すると決めた。

【距離感を大切に】

 佐藤コーチが大切にしているのは距離感だ。6種目を通すような本番さながらの練習では、内村の集中を妨げないよう、物理的にも心理的にも、あえて少し離れた場所で見守る。特定の種目を重点的にトレーニングする場合は、積極的に声をかけて盛り上げ、リラックスを促す。今年からのルール変更と内村のコンディションを考慮し、ベストの演技構成をともに練り上げていく。

 内村のプロ初戦となった4月の全日本選手権。平行棒で大きなミスがあった予選は、まさかの4位だった。佐藤コーチは動じず、いつもと同じ声色で言った。「久々の試合だし、こうなることは予想してました。1回やっとけば、次は大丈夫なんじゃないですか?」。ふがいない自らの演技に怒りを抱いていた内村は、「あの言葉で開き直れた」と振り返る。決勝では田中との0・050点差の接戦を制して、前人未到の10連覇を飾った。

 21日のNHK杯、今秋の世界選手権、そして集大成の20年東京五輪へと道は続く。「あれだけの選手と一緒に仕事ができるのは、ホントに光栄です」と言う佐藤コーチは、「東京が終わるまで“航平さん”ですね」と笑った。出会ってすぐに打ち解けた2人は今、選手とコーチという立場で同じ夢を追う。20年前には想像もできなかった物語にはきっと、黄金のエピローグが用意されている。(記者コラム・杉本 亮輔)

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