吉田秀彦氏「先輩の真似ばかりしてきました。でもこんなに早く死ぬことだけは…」古賀さん告別式で涙の弔辞

2021年03月29日 16:53

柔道

吉田秀彦氏「先輩の真似ばかりしてきました。でもこんなに早く死ぬことだけは…」古賀さん告別式で涙の弔辞
古賀稔彦さんの告別式で、手を合わせ古賀さんを見送る吉田秀彦氏(撮影・村上 大輔)  Photo By スポニチ
 92年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級王者で、24日にがんのため53歳の短い生涯を閉じた古賀稔彦さんの葬儀・告別式が29日、川崎市内で営まれた。会場となった寺院には、講道館館長でバルセロナ五輪男子日本代表監督を務めた上村春樹氏、野村忠宏さんや谷亮子さん、谷本歩実さんら五輪メダリストに加え、東京五輪女子52キロ級代表の阿部詩(日体大)ら、関係者ら約1000人が参列。白い棺に白の柔道着と黒帯姿で収められた古賀さんと、最後の別れを惜しんだ。
 告別式では長男で現在は慶応高柔道部で指導にあたる颯人さんがあいさつし、古賀さんが川崎市内に開いた町道場「古賀塾」に通う生徒たちもメッセージを送った。弔辞は柔道私塾「講道学舎」の後輩に当たり、バルセロナ五輪78キロ級金メダリストの吉田秀彦氏(パーク24総監督)が読み上げた。

 24日以降、連日のように川崎市内の古賀塾を訪れた吉田氏は、名前を呼ばれてからも約1分間、涙で言葉が出ず。講道学舎での寮生活の思い出、伝説となったバルセロナ五輪直前のケガから金メダルを獲るまでの振る舞いなど、さまざまなエピソードが明かされ、参列者の涙を誘った。

 ▽吉田秀彦氏弔辞全文

 早すぎますよ。

 亡くなる前日、会いましたね。その時、手を握って頑張ってと声をかけたら、先輩は手を握りかえしてくれましたね。その感触は今でも残ってます。あれは俺、頑張るよという返事だと思ってました

 先輩との出会いは私が中学校3年の時。講道学舎で。その時、先輩は高校2年生。既に柔道界のスーパースター。もちろん私の中でも憧れの先輩でした。ヒョロヒョロで柔道も弱かった私を投げやすいからといって付き人にしてくれましたね。柔道以外でも耳かきがうまいからといって毎晩のように先輩の部屋に呼んでくれましたね。先輩の部屋には学舎では禁止のテレビが隠してあって、先輩の耳かきをしながらそのテレビを見るのが楽しみな時間でした。

 先輩は大学生になってもいつも学舎の私の部屋に泊まりにきてましたね。気が付くと先輩のぶっとい腕で、腕枕で寝てたこともありましたね。そして私のパンツを勝手にはいて、じゃあまた後でといって練習に行ってましたね。

 先輩の近くにいたから柔道でも先輩に追い付きたいと思うようになり、いつか同じ世界の舞台で戦いたいという夢ができました。その夢が実現したのがバルセロナ五輪。日本中から金メダル確実と言われていた先輩。ケガをさせてしまった時、頭の中が真っ白になりました。今でも思い出します。その日、選手村に帰ると、先輩私に気を使って「俺、これで金メダル獲れるよ。だからお前も絶対に取れ」と言ってくれましたね。でも実際先輩はベッドから動くこともできない状態で、いつ棄権を申し出るのかと思っていました。

 それから試合までの10日間は、ほとんどの食事を取らないで減量に励み、本気で金メダルを獲ろうとしてる、その姿を見て、この人なら本当に金メダルを取れるかもしれないというふうに思わせてくれました。古賀先輩の頑張りに報いるためにも先輩の前日に試合がある私は絶対金メダルをとって先輩にバトンをつなごうという思いでした。この先輩と過ごした10日間で強い精神力、勝つためには何をしなければいけないかを学びました。

 そんな強い精神力を持った先輩が、まさかがんに負けると思いませんでした。ともに過ごしたバルセロナの10日間を見ていたので、先輩なら必ずがんに打ち勝って、また奇跡を起こしてくれると信じていました。

 今まで先輩の真似ばかりしてきました。先輩の真似をすれば強くなるんだな。先輩がひげを生やせば僕も生やして試合に出ました。でも、こんなに早く死ぬことだけは真似できません。もっと先輩と語りたかったです。天国でゆっくり休んで下さい。

 先輩、東京でやる五輪、見たかったですよね。日本選手の活躍を楽しみに見守って下さい。先輩にサヨナラを言いたくないので、お疲れさまでした。

 令和3年3月29日 吉田秀彦

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