松田選手の向こう側に映っていた山々 オレゴン州ユージーンでの1987年
2022年07月20日 09:31
陸上
ネットなどで調べてもらえばわかるのだが、そもそもこの名前は男性のファーストネーム。「家柄の良い(WELL・BORN)」という意味を持つギリシャ語の「ユーゲネイス(EUGENES)」が由来で、俳優のジーン・ハックマン(94)に代表されるように、短縮名「GENE」を「ジン」と発音する人はいない。女性名は「ユージニー」。映画「ハリー・ポッター」には「ジニー・ウィズリー(演じたのはボニー・ライト)」という役どころがあった。
さて米国出張第1日。私は途方に暮れていた。サンフランシスコ経由でユージーンの空港に到着したのは午後11時すぎ。屋外のレンタカー乗り場まで来ると夜空には10月の満天の星が輝いていた。出発する前、車の中でレンタカー会社からもらったユージーン市内の地図と10分間、にらめっこ。目指すはオレゴン大キャンパスまで歩いていける1泊29ドルの格安ホテルだった。
空港から南西方向に行くので北極星の位置も確認。その星の方向に進んでいなければ、少なくとも方向だけは間違っていないからだ。こう書くと、スマートフォンやナビゲーターが当たり前になっている現在の若い人たちにはピンと来ないかもしれないが、少なくとも私は80年代後半における米国内の見知らぬ土地での“夜間移動の基本”は守っていたと思う。
しかし地図で確認していたというのに、ホテル到着目前で道を間違った。気が付けば街の灯りが消えうせ、暗闇に包まれていた。レンタカーが走っていたのはキャンパス付近ではなくなぜか森の中。現在ユージーンで開催されている陸上の世界選手権・女子マラソンの中継で日本の松田瑞生選手(27=ダイハツ)の姿が側面からとらえられたとき、コース脇の草原の向こうに山が映っていたが、そこはもしかしたら、私が迷い込んだ場所だったかもしれない。
米国初出張の初日に迷子になってしまう心境を察してほしい。それはそれは心細いものである。「誰か助けてよ」。ステアリングを強く握りながらぶつぶつ言っていた苦い思い出は、他のどの楽しい思い出よりも私の“記憶ランキング”の上位を占めている。
30分ほど迷走。すると森の中とも言える道路脇にガソリンスタンドがあった。そこでは身長2メートルほどの強面(こわおもて)の男性が店番をしていたが、「私を助けられるのは世界で今、彼1人しかいない」と思った私は車を停め、1泊29ドルのホテルへの生き方を尋ねた。
「曲がるべきところを10マイル(約16キロ)ほど真っすぐに行き過ぎたね。来た道を戻りな」
この何気ない言葉がどれだけ私を勇気づけたか…。私が今日、日本で生きていけるのも?名前さえ知らない彼のおかげかもしれない。
ホテル到着は午前2時。深夜の来客とあってたぶん仮眠を取っていた受付の若いお兄ちゃんには嫌な顔をされた。カメラの機材も運んでいたので、結構荷物は多かったのだが、階段しかない2階の部屋には1人で上がった。お兄ちゃんは荷物運びを手伝ってくれなかった。
翌日、時差ボケ解消のために周囲をジョギング。そこに見えてきたのが改修前のヘイワード・フィールドで、今はそこで陸上の世界選手権が開かれている。
スタジアム名は1904年から47年までオレゴン大の陸上チームを率いてきたビル・ヘイワードに由来。1919年にフットボール用スタジアムとして建設されるまで、そこは牧草地だったとされている。1967年、フットボールチームはオーツェン・スタジアムという専用競技場が完成したために移転。ヘイワード・フィールドは世界的に見ても非常に珍しい球技を行わない陸上専用のスタジアムとなった。
現在に至るまで何度も改修工事が行われているが、最も大規模だったのは今回の世界選手権に合わせた2018年から20年までの工事で、総工費は2億7000万ドル(約373億円)。これを同大出身でナイキ社の創業者でもあるフィル・ナイト氏(84)を含む50人以上の“有志”が寄付をしてまかなったというから、日本とはスケールがまるで違う。
しかも全米大学選手や全米選手権を他のどのスタジアムよりも多く開催しているヘイワード・フィールドには「トラックタウンUSA」という非政府組織の“別動部隊”がいて、大会の運営をすべて請け負っている。ハードだけでなくソフトも完備。それが「世界の陸上界の中心地」と言われるゆえんでもある。
私はこのあと大学内に空港、ゴルフ場、さらに8万人収容のスタジアムなどを持つペン州立大、凍結防止の電熱コイルが敷設されているミシガン大の10万人収容のスタジアム、キャンパス内に東京ドームそっくりの室内競技場を所有するシラキュース大(ニューヨーク州)、スタジアム外部の観客席の下に恐竜の化石を保管していたブリガムヤング大(ユタ州)を訪れたが、日本の大学スポーツ界とのあまりにも違う環境に目が点になってしまう日々を過ごすことになる。
ユージーンでの特派員生活の第1週。心もとない内容ながら一生懸命書いた原稿をホテルのオフィスからファックスで送ってもらったが(ワープロやパソコンでの記事送信はまだ先の話)、要領を得ない若いお兄ちゃんのせいで、すべて裏向きで送信されて日本では白紙となっていた。
英語も未熟。なかなか選手に真意が伝わらず、大学のスポーツ局のスタッフに介添え役を頼んだ。まさになさけない“滑り出し”だった。
それでも現地メディアの人が質問するときの英語に耳を傾けたときから少し流れが変わってきた。「なぜフットボールを始めたのですか?」の英語を「WHY DID YOU…」で始めると「I LOVE IT(好きだから)」という答えしか返ってこなかったが、米国の記者が口にした「WHAT INSPIRED(何があなたをその気にさせたのですか?)」にすると、「自分が8歳のときに他界した父がいつも試合に連れていってくれたから」といったエピソードが出てくることを知った。
日本の某電気メーカーのCMやDA PUMPのヒット曲「U.S.A」の歌詞の中に出てくるあの「INSPIRE」。学生時代にどの先生も教えてくれなかった“試験にあまり出ない英単語”が私の仕事には役に立った。道迷いを含め、自分1人ですべて解決できるはずはないというスタンスを取ったことで、物事は少しだけうまくいくようになった。
9位となった松田はレース後のインタビューで「これだけたくさんの人に応援してもらったのに…。すいません」と入賞(8位以内)を逃したことで悲しい表情を見せていたが、決して下をうつむくような結果ではない。
2時間19分12秒の自己ベストを持つ米国のキーラ・ダマート(37)とは15秒差。残り4キロ地点で松田に4秒差にされたダマートがなぜ最後に引き離していったのかを不思議に思った方もいるかもしれないが、それはただ単に8位入賞ということがかかっていただけではなく、5位にサラ・ホール(39)、7位にエマ・ベイツ(30)といった米国勢が自分の前にいたことを彼女が知っていたからだろう。チームメートの踏ん張りがダマートを「INSPIRE」させた結果が最後のもうひと頑張り…。あの光景は私の目にはそう映った。
“三本の矢”で走った米国に対し、日本は新型コロナウィルスの影響で1人になってしまった女子マラソン。ただ、ユージーンでドジを踏んだ身として言わせてもらえるなら、長い年月が経過すると失敗だと感じた出来事がやがて輝いて見えるときが来る。“三本の矢”を1人だけでパキっと折りかけた松田の奮闘。最後まであきらめなかったその姿と、私の思い出をよみがえらせてくれたその走りに拍手を送りたい。
◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。
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