気がつけば40年(1)ひょうたんから駒の「生涯一記者」

2020年07月21日 07:00

野球

気がつけば40年(1)ひょうたんから駒の「生涯一記者」
野村さんの西武入団発表を伝えた1978年12月2日付スポニチ東京版 Photo By スポニチ
 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】1979年、12月上旬だった。東京・北の丸公園内にある科学技術館の会議室。私はスポーツニッポン新聞東京本社入社試験の最終面接に臨んでいた。
 10社ほど受けた入社試験最後の砦。面接官が並ぶ席の中央に陣取った重役が「君が尊敬しているのは…」と口にした瞬間、背筋が凍った。履歴書の「尊敬する人」の欄。誰の名前を書いたか覚えていなかった。

 総合商社から広告代理店、レコード会社に出版社、製造業など基本的に1業種1社という無節操な就職活動。業種、会社に合わせて適当な名前を書いていたのである。

 しかし、背筋はすぐに緩んだ。

 「野村克也ということだが…」

 重役はいい人だった。私の「尊敬する人」を教えてくれたのだ。縁を感じた。

 「どんなところを尊敬しているのかね?」と聞かれ、よどみなく答えた。

 「生涯一捕手としてひとつの道を極めているところです。私も生涯一記者になりたいと思っています」

 口から出まかせである。調子に乗って続けた。

 「でも、社長になれるのでしたら、なりたいと思います」
 面接会場全体の空気が少し緩んだ気がした。

 今年2月11日に84歳で亡くなった野村さんは当時西武に在籍していた。

 54年にテスト生として入団した南海(現ソフトバンク)で正捕手となり、65年には戦後初の三冠王に輝いた。70年から8シーズンにわたってプレーイングマネージャーを務めたが、77年のシーズン終盤、公式戦2試合を残して解任された。

 のちに再婚する沙知代さんの現場介入が問題となり、球団から「野球を取るか女を取るか」と迫られ、女を取ったのである。

 ロッテから声がかかり、78年は現役一本で再出発。そのオフ、退任する金田正一監督の後任として監督就任を要請されたが、固辞し、わずか1年でロッテを去った。

 3球団目となる新天地は、クラウンライターを買収して福岡から埼玉・所沢へ移転した西武。78年12月1日、入団発表の際、色紙に「生涯一捕手」としたためた。

 私は野村さんのファンだったわけじゃない。物心ついたときから憧れていた長嶋茂雄さんが74年に引退。プロ野球への関心が薄らいでいたときだったが、なぜか「生涯一捕手」のフレーズは頭に残っていた。

 スポニチに提出する履歴書を書くにあたって、スポーツ紙なら野球人だろうということで野村さんの名前を拝借したのだ。すぐ忘れたんだけどね。

 「生涯一記者」が効いたかどうか分からないが、クリスマス前にスポニチから採用通知が届いた。就職試験で唯一もらった「サクラサク」だった。

 80年4月1日、スポニチ入社。新聞販売店や駅の売店に新聞を卸す即売店など1カ月の研修を終えて5月1日、編集局運動部(現スポーツ部)に配属された。

 気がつけば、ちょうど40年になる。社長は遠く及ばなかった。というか、かすりもしなかった。でも、おかげでずっと記者を続けさせてもらっている。

 ひょうたんから駒の記者稼業。スポニチの紙面とともに振り返りたい。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍で活動していない。

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