【日本シリーズ戦記 1958年「西鉄―巨人」】鉄腕VS黄金 奇跡の西鉄ライオンズ、神様仏様稲尾様

2022年10月19日 17:20

野球

【日本シリーズ戦記 1958年「西鉄―巨人」】鉄腕VS黄金 奇跡の西鉄ライオンズ、神様仏様稲尾様
1958年の日本シリーズで対戦する西鉄・稲尾と巨人・長嶋 Photo By スポニチ
 1950年(昭25)に始まったプロ野球日本シリーズはこの秋で73回目を迎える。数多くのドラマの中でひときわ輝きを放つのが1958年(昭33)の西鉄ライオンズによる奇跡の逆転優勝だ。3連敗した崖っぷちから怒濤(どとう)の4連勝。3年連続で巨人を倒して日本一を勝ち取った原動力は「鉄腕」と呼ばれたエース、稲尾和久だった。その無類のタフネスぶりはチームに何度もミラクル逆転劇を呼び込んだ。昭和の高度経済成長とともに石油へのエネルギー政策の転換が進み、西鉄の本拠地の九州では筑豊の石炭産業が急速に斜陽化していた。そんな中、稲尾は来る日も来る日も福岡・平和台のマウンドに上がり、シリーズ7試合のうち6試合に登板し、4連投4連勝の離れ業でチームを救った。酷使がたたり、最盛期は短かったが、ライオンズひと筋に通算276勝を挙げた。背番号24の勇姿に胸をふるわせた人々は「神様、仏様、稲尾様」と称えた。伝説の逆転日本一を果たした鉄腕のドラマに迫った。(役職は当時、敬称略)
~高熱で迎えた開幕戦 鉄腕VS黄金ルーキー長嶋~

 ソフトバンクホークスの本拠地、福岡にはかつてもう一つの強力チームがあった。5度のリーグ優勝を果たし、3年連続で巨人を破り日本シリーズ3連覇を果たした西鉄ライオンズである。1973年の球団身売り、78年の所沢移転で福岡から消えても中西太、豊田泰光の火を吹くバットと稲尾和久の鉄腕ぶりは今も九州の野球ファンの心をとらえて放さない。

 奇跡と呼ばれた逆転劇は1958年の日本シリーズで起きた。巨人が後楽園での第1、2戦に連勝した。さらに平和台に舞台を移した第3戦も勝って王手をかけた。第4戦は雨で順延となったが、この水入りで崖っ縁の西鉄は息を吹き返した。ミラクルドラマの幕が開いた。

 稲尾はレギュラーシーズンが終わるといつも原因不明の発熱に悩まされていた。21勝6敗で新人王を獲得した1年目の56年がその始まりで、最多勝など投手3冠に輝いた2年目も発熱があった。おそらく酷使に次ぐ酷使で蓄積した疲労がシーズン終了とともに吹き出すのだろう。58年も例外ではなかった。この年のペナントレースで西鉄は立大出のサブマリン投手、杉浦忠が加わった南海にシーズン前半リードを許し、球宴前に最大11ゲーム差をつけられた。南海追撃の切り札はもちろん鉄腕・稲尾だった。

 8月以降の50試合だけで31試合に登板し17勝(1敗)を挙げた。シーズンの登板数は72試合に上った。稲尾はシーズン33勝10敗で最多勝に輝いたほか最優秀防御率(1・42)、最多奪三振(334)のタイトルも獲得。超人的な働きで西鉄の逆転優勝に貢献した。

 10月5日に最終戦を終わるとまたも稲尾を高熱が襲った。だが休む間もなく11日に開幕する日本シリーズに備えた練習が始まる。稲尾の体調不良は巨人にもマスコミにも知られてはいけない。三原脩監督の指示で稲尾は福岡市唐人町の合宿所から隔離された。熱でフラフラになりながら練習に参加すると、平和台の外野を「うんうん」とうなりながら走るふりをさせられた。練習が終わると1人タクシーに乗せられ、新聞記者の目を欺くためわざわざ繁華街呉服町にあった映画館「大博劇場」に乗り付けた。日本シリーズの決戦を前に映画でリフレッシュと思わせ、すぐにタクシーを裏口に回すと病院に直行。あとは隔離場所である西公園近くの旅館で倒れ込むように眠った。

~気配が読めない 初対決で長嶋に痛烈三塁打…連敗~

 10月11日、後楽園球場で日本シリーズが始まった。晴天、気温は20度。絶好の日本シリーズ日和だったが、稲尾の熱はまだ下がっていなかった。宙に浮いたような感じのまま第1戦のマウンドに上がった。実は稲尾は高熱のほかにもう1つの“難敵”と戦わなければならなかった。立大出の大物新人、長嶋茂雄をどう抑えるか、である。新人ながら29本塁打、92打点で2冠に輝き、打率も3割5厘でリーグ2位という大活躍で巨人の4番に座る長嶋が初回2死一塁に早くも最初の打席に入った。長嶋との最初の対決を稲尾は後年も鮮明に記憶していた。

 「普通は打者から気配みたいなものを感じるんだが、長嶋さんはそれがなかった。ただ、スーッと立っているだけ。狙いが読み取れなかった」

 無類の制球力を武器に「ボール1個」「ボール半個」の出し入れで打者を抑えてきた稲尾は打者の顔つきやちょっとした動き、構えで相手の狙いを察知する能力にたけていた。エサをまき、打者心理を逆手にとって抑える頭脳的なピッチングが得意だった。だが、このときの長嶋だけは考えが読めない。

 「そこで様子見に外角球を続けたんだ。ファウル、ファウルと粘られて1ボール2ストライクからだったな。最後も外のスライダーだった」

 気配が感じられなかった長嶋が稲尾の4球目に鋭く反応し、独特のアウトステップをしながら右翼線に三塁打した。これが先制点となり、稲尾は4回で3点を奪われ、降板した。勢いに乗った長嶋は7回に3番手・河村久文(英文)から2ランを放つなど2安打3打点の活躍。西鉄は2―9と大敗した。続く第2戦は先発・島原幸雄が1死も取れずに降板し、2番手・畑隆幸も傷口を広げ、3―7で連敗した。

~まさかの3連敗「負けるなら後楽園」が合言葉~

 平和台へ帰る夜行列車あさかぜのベッドで稲尾は思い切り汗をかき、寝間着を何度か着替えた。すると39度あった高熱が博多駅に着く頃には35度台に下がっていた。

 平和台に舞台を移して行われた第3戦。熱が下がった稲尾は2度目の先発マウンドに上がった。巨人の藤田元司との投げ合いは0―1で惜しくも敗れたが稲尾は3安打完投と調子を上げてきた。とはいえ王手をかけられた西鉄はもう後がなくなった。敗戦後のロッカーには平和台球場を取り巻くファンの怒号が聞こえてきた。気の強い豊田が「おい、このまま次の試合に負けたら家には帰れんぞ」と叫んだ。「負けるなら後楽園でだぞ」「ヤケ酒は東京で飲もうぜ」と声が上がった。血の気の多い平和台のファンの前でむざむざ負けるわけにはいかない。西鉄は開き直るしかなかった。

 夜半になって降り始めた雨で翌日の試合は順延された。午前8時に中止が決定されたため「早すぎる」と巨人側は抗議。流れを変えるために三原監督が中止決定を急いだと言われるが、病み上がりの稲尾がさらに睡眠と休養のための時間を得たのだけは確かだった。

 熱は完全に下がり、体調も万全に戻った。あとは「長嶋封じ」の答えを出すだけだった。第1戦の初対決で外角球をタイムリー三塁打された稲尾の頭脳には「長打のリスクはあっても勝負はインコースだな」という対策が明確になり始めた。稲尾の投球の基本は直球、シュート、スライダーだった。入団当初は右打者の内角球がシュート、外角球がスライダーに自然に変化していたが2年目からは意識して投げ分けるようになった。中でもスライダーはカウントを稼ぐ、空振りを取る、たとえ当てられてもファウルになるという重宝な武器になった。だが、そのスライダーを長嶋には痛打された。さて、どうしたものか…。

~第4戦で一矢 第5戦は「稲尾様」が延長サヨナラ弾~

 雨で順延をはさんだ第4戦が開始された。先発・稲尾は初回に長嶋に犠飛を打たれたが、あることに気がついた。稲尾によれば「長嶋さんはあらかじめ狙いを決めているのではなく投球に合わせて瞬間的に対応する打者だったんだ。だからこちらも長嶋さんの動きを見て感性対感性の勝負に出た」。長嶋の動きをよく見ると稲尾の投球フォームに合わせて微妙な気配が生まれる。外角狙いだと肩がぐっと入る。

 稲尾はそれを見てテークバックで握りを変え、スライダーをシュートに、外角から内角へとコースを変えた。だからサインは不要。捕手の日比野武と「ノーサイン投球」を確認した。5回、長嶋を打席に迎えると稲尾はノーサイン投球で腕を振り下ろす瞬間、コースを変えて三飛に仕留めた。長嶋封じの答えがついに出たのだ。3点を追う西鉄は「このまま負けられない」と叫んだ豊田が鬼気迫る打撃で5、7回に連続本塁打して逆転。稲尾も粘り抜き6―4で西鉄はシリーズ初勝利を挙げた。

 続く第5戦に稲尾は3点を追う4回から登板。西鉄は追い上げ、2―3の9回2死から関口清治が起死回生の中前打を打って追いつき、延長10回に稲尾が自ら左翼へサヨナラ本塁打を決めた。稲尾はこの場面を「思い切ってバットを振ったが打球は見えなかった。二塁塁審が手を回すのを見て本塁打だと分かった。ふわふわした雲の上を走っている感じ。三塁コーチの中谷(準志)さんに、ベースを踏め、と怒鳴られて慌てて本塁を踏んだよ」と鮮明に記憶していた。稲尾に向かってベンチの上で手を合わせるファンの写真が翌日のスポーツ紙を飾り、「神様、仏様、稲尾様」の見出しが生まれた。稲尾は7イニングを無失点救援勝利。怖いファンを恐れた西鉄ナインが願い通り舞台を再び後楽園に押し戻したのだった。

~長嶋勝負を直訴 必殺の内角シュートで逆王手~

 舞台は再び後楽園。西鉄はすでに勢いで巨人を超えていた。第6戦。西鉄は中西が初回、遊ゴロ失の豊田を一塁において先制2ランを巨人・藤田元司から放った。後年、稲尾は「あのシリーズは延長サヨナラ本塁打で勝った第5戦がヤマだったという人が多いけど、オレにとっては第6戦が最大のヤマ場だった。長嶋さんを完全に抑えられたのが第6戦だったんだ」とたびたび話した。その第6戦で稲尾は2点の援護をもらい、8回まで3安打無失点。4番の長嶋は2、5、8回にすべて先頭で迎え、三振、三ゴロ、一飛と完璧に抑え込んできた。だが、ピンチは最終回に訪れた。内野の2失策で2死一、三塁となり、長嶋を打席に迎えた。三原監督は長嶋を歩かせて満塁策を取り、次の藤尾茂との勝負を指示した。だが、稲尾は首を振った。「藤尾捕手にはあの試合で2本打たれてて次も打たれるような予感がした。だから三原さんに長嶋さんと勝負させてくれと頼み込んだんだ」と稲尾は振り返る。

 捕手・日比野武と相談が始まった。「何でいくか」と日比野。「インコースでしょう」と稲尾。「何球目か」と日比野。「え?」と稲尾は一瞬、詰まったがすぐに合点がいった。つまり詰め将棋の要領だ。最後に「王手」を掛けるために1手目、2手目と布石を打つ。稲尾は答えた。「3球目。シュートでいきます」

 3球目の内角シュートから逆算した稲尾の1球目は外角まっすぐ。ボール1個分外れるボール球にさすがに長嶋は手を出さない。2球目。外角いっぱいのスライダー。今度は食いついてきた長嶋だが切れのいい変化に打球はファウルとなった。さあ、布石は打った。1ボール1ストライクからの3球目。狙い通りの内角シュートを稲尾は投げ込んだ。「一瞬、長嶋さんが来た!という顔をしたよ」と何年も後に稲尾は昨日のことのように笑顔で振り返った。だが、稲尾が「ボール半個分、内側だった」という内角球はバットの芯を外れ、捕邪飛となって日比野のミットに収まった。第6戦は2―0の完封勝ち。長嶋を抑えきった稲尾は第7戦も中西の初回3ランの援護に支えられ、第5戦の2回からこの試合の8回まで25回連続無失点の好投で、6―1の完投勝利を決めた。

~5連投4連勝で逆転日本一 鉄腕はプロ野球の伝説になった~

 このシリーズで稲尾は長嶋を通算18打数3安打、打率・167に抑えた。高熱からよみがえった稲尾の超人的なタフネスさと長嶋を抑えた伝説の「逆算ピッチング」が西鉄の奇跡を引き寄せた。
 福岡PayPayドームには多くのファンが詰めかけ、野球の醍醐味に酔っている。後年、稲尾は「連投に次ぐ連投を嫌だとは思わなかった。ファンが喜んでくれるならやってやろうという気持ちしかなかった。選手寿命とか中6日なんて言葉もなく、男がバカになれる時代だったかも知れんな」と奇跡のシリーズを振り返っていた。稲尾は2007年11月13日、悪性腫瘍のため70歳で亡くなった。疲れを知らない鉄腕もやはり不死身ではなかった。野武士たちの夢の跡。伝説の舞台にもなった平和台球場は97年に取り壊され今はない。
(スポニチアーカイブス2014年9月号に掲載)

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