【ラグビーレジェンド対談第5回】大八木淳史氏と山口良治氏(5)

2023年10月24日 05:10

ラグビー

【ラグビーレジェンド対談第5回】大八木淳史氏と山口良治氏(5)
山口良治さん(左)と大八木淳史さん Photo By スポニチ
 元ラグビー日本代表の大八木淳史氏(62)がゲストを招いてトークする「レジェンド対談」がスタートします。第一弾は大八木氏の恩師で、日本代表フランカーとしても活躍した元伏見工業高校監督の山口良治氏(80)です。あの伝説のテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」の主人公、滝沢賢治のモデルにもなった“泣き虫先生”が、教え子の“暴れん坊”と語り合った。 【対談動画はこちらから
 第5回は「暴れん坊 大八木氏 ミスターラグビー 平尾誠二氏との出会い」(対談映像はYouTube「スポニチチャンネル」で配信中です)

 大八木 日本ラグビーの申し子と言えば平尾誠二ですが、早く亡くなってしまったんですけど、なんか思い出ありますか?いっぱいあると思うんですけど。

 山口 平尾が中学の時に西京極でラグビー祭があってね。練習しているときに中学の大会もあって、見ていたんですよ。陶化中学の、まだ平尾とは知らないときですよ。スタンドがボール持ったときに、あそこ空いている、蹴れと思ったら、そこにポンと蹴るんや。余っているからウイングに飛ばせと思ったら、飛ばしよるんや。本当に思ったことをそのままやるんや。それで、コイツ素晴らしいと思って、名前なんて言うのと聞いて陶化中学の先生に名前を聞いたら「平尾」、実家が伏見の近くやと聞いたので、学校の帰りに行ってん。すでに花園に決まっていて、親もけんもほろろや。特待生で決まっていた。そやけど平尾は、僕のジャパンのときの海外遠征の話とかいろいろな話をしてね、今でも覚えている。目をクルッとして、ずーっと聞いてくれていて。でも、これはあかんと思って、花園には彼のいる3年間は勝てへんと思って、帰ってきた。それからしばらくして、願書の受け付けが始まると、平尾の入学願書が出ていると。ほんまに飛びあがって喜んだね。建築科に、成績もあったし。

 大八木 先生の情熱ですね。未来の平尾誠二を語ってやったんですね。

 山口 高校入学前に天理高校との練習試合に平尾を出してね。波紋があったね。

 大八木 僕のことになると正門で先生と出会うわけですよ。

 山口 受験に来たときにね。

 大八木 ぼくにラグビーやらないかと言われましたよね。

 山口 直感やな。校門のとこから来るのを見て、これはラグビーやらそうって。

 大八木 当時、浪商とか練習試合で負けたら高校まで走って帰されていましたもんね。考えられないでしょ。でも、みんなストッキングのところに小銭入れてね。「そんな走って帰るわけないやろ」と言って電車に乗っていた。
 当時、負けたらもう一本お願いしてこいとキャプテンが言われてね。ほな延々、終わらへんねん。あれも不思議な世界でしたね。先生が「負けたままでいいのかよ!バカヤロウ。頼んでこい」ってね。天理と浪商と伏見工業とやったときは延々三つどもえで終わらへんねん。ほな選手同士でラインアウト「適当にやろな」となんねん。「ほなオレ捕るし」みたいな話になるんですよ。ああいうコミュニケーション能力はできるんですよね。サラリーマンには必要ですよね。そういう能力も。「適当にやろうや。いつ終わるねん」ってね。理不尽、不条理なことばっかりやったね。でも、それを経験して社会人で役に立つねんね。
 みんな当時は「お願いしてこいって」ね。目黒高校も大変でしたね。梅木さんね。食堂で歓迎会とかしていたんですよね。そこでウインナーとか出るんですよ。伏見工業の選手がウインナーを3本か4本食べたら、梅木先生が怒って「(食べる量)負けているやないか」って。ウインナーを追加で思いっきり食べさせられていた。「負けたらダメなんだよ」と。理不尽もええとこやで。
    (終わり)

  ◇山口 良治(やまぐち・よしはる)1943年(昭18)2月15日、福井県三方生まれの80歳。若狭農林高(現若狭東)から日大、日体大(編入)。1974年に伏見工(現京都工学院)に赴任。翌75年にラグビー部監督に就任し、1980年、92年と2度の日本一に導いた。現役時代のポジションはフランカー。キッカーとしても活躍。日本代表キャップは13。

 ◇大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれの62歳。伏見工からラグビーを始め、同志社大―神戸製鋼。同志社大時代は大学選手権3連覇、神戸製鋼時代は日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはロック。日本代表キャップ30。

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