神戸製鋼、常勝軍団への道のり V1への軌跡

2024年01月27日 19:05

ラグビー

神戸製鋼、常勝軍団への道のり V1への軌跡
ラグビーレジェンド対談 Photo By スポニチ
 元ラグビー日本代表の大八木淳史氏(62)がゲストを招いてトークする「レジェンド対談」。第3弾は大八木氏の元同僚で、神戸製鋼ラグビー部(現コベルコ神戸スティーラーズ)のスタンドオフ、スクラムハーフとして活躍し、7連覇に導いた藪木宏之氏(57)です。第2回は「神戸製鋼V7始動へ 大八木がいた 平尾がいた そして藪木が加わった――」(対談映像はYouTube「スポニチチャンネル」で配信中です) 【対談動画はこちらから
 大八木氏(以下大八木) いよいよ1985年に神戸製鋼に入るわけですが。打倒釜石やったんです。ずっと同志社時代に負けていたから。準決勝で松尾雄治さんは(引退して)いなかったんやけど勝つねんね。で、決勝でトヨタ自動車。あのとき、プロップに池田さんとかいて、めちゃくちゃ押されて負けるんよね。でも日本選手権は慶応大が勝ったんやね。

 藪木氏(以下藪木)
そうです慶応が日本一です。上田さんが監督で。明治と慶応の大学選手権決勝は同点で、抽選で慶応が日本選手権に出場したんです。

 大八木 そうなんや。

 藪木 その時は2年でした。キャプテンは南隆雄さんでした。

 大八木 翌年の1986年、平尾も神戸製鋼に入社した。夏の日本代表合宿で(左膝の)前十字靱帯(じんたい)を切ったんですよ。横浜の港湾病院(現横浜市立みなと赤十字病院)で手術して、(翌年の)2月まで復帰できなかった。

 藪木 その年の神戸製鋼は準決勝で新日鉄釜石と9―9の同点で、抽選で神戸が負けました。キャプテンは林さんです。

 大八木 オレが入った時のキャプテンは慶応大出身の東山勝英さん。東山さんも亡くなられたなぁ。

藪木 私が入社したときの経理部の先輩でした。

 大八木 ケガから復帰した1987年度は?

 藪木 社会人大会は1回戦で東芝府中に(15―16)1点差で負けました。

 大八木 そうや、オレ、(本当は)敵ボールのラインアウトを投げて、兼平さんがなだれこんでトライしたんやけど、タッチジャッジがちゃんと見ててね。
 いよいよ1988年。鉄鋼業界、年功序列が好きなんよ。林の次は大八木と亀高さんに言われたんやけど。そこで、また15歳の時の話ですよ。
 中学3年の平尾と高校1年のときに会った時に、ラグビーは平尾の方が上やと思ったので、キャプテンは平尾がやったほうがいいと亀高さんに言いました。亀高さんは「1こ下のヤツがやっていいんか」と。そんなん関係ないですよ、平尾をやらせた方がいいですよと言って、東山、林、林、平尾誠二になった。で、(藪木は)入って来たんやね。
 ここからテクニカルの話になるんやけど、(藪木のポジションは)スクラムハーフなのにスタンドオフに変わるんやけど、平尾が何か言ってきたん?

 藪木 最初の職場が神戸製鉄所の経理室だったんですけど、そこに平尾さんから11月後半に内線電話がかかってきて、たしか大阪府警戦の前だったと思うんですけど、「(通常よりも)早くグラウンドに来られるか?」と聞かれて、行きますと。行くと平尾さんが「グラウンドに出よか」と言われて、平尾さんがスクラムハーフの役をして、私が「10番」の位置に立って平尾さんのパスを受けて何回か蹴ったんです。平尾さんが独り言で「オレとあまり変わらんなぁ」との一言でその日は終わりました。

 大八木 何を見て変わらんなぁやったん?

 藪木 それは、まったく分からないのですが。その週は何も変わらず萩本さん9番、平尾さん10番で試合をしました。
 翌週のトヨタ自動車戦前も火曜日に電話がかかってきてグラウンドに行ったんです。今度は平尾さんは着替えることもなくスーツ姿のままで、真剣に私の顔を見て「藪木、今週のトヨタ戦はお前が10番や」と言われました。理由も何もなく。できるかなと言うより、ポジションに関係なく試合に出られるうれしさの方がありました。

 大八木 平尾の(伏見工時代の)日本一を見て(ラグビーを始めて神戸製鋼に)入った藪木が、そら嬉しいよね。

 藪木 萩本さんがスクラムハーフで、平尾さんは「10番」から「12番」に下がり、藤崎さんとコンビですね。

 大八木 平尾がインサイドセンターやったんやね。何が理由やったんやろね。自分と(敵と)の距離があった方が平尾も仕掛けやすかったんかなぁ。スタンドオフの位置でボールをもらうよりは。

 藪木 平尾さんがボールをもらうと、あまりにも攻撃が平尾さんのところで決まってしまうので、相手のディフェンスも(攻撃が)読みやすい。平尾さんは「12」に下がって、ボールが一つ動いてから仕掛けた方が相手もディフェンスしづらいというのがずっと頭の中にあったようです。平尾さんが先に「12」に代わるというのは決まっていたんですけど、自分がやっていた「10」を誰がやるんだとずっと平尾さんは悩んでいたようです。

 大八木 そら、林さんは無理やし、大八木でも無理やし。平尾のところでワンクッションあった方がバリエーション増えるしね。

 藪木 トヨタ自動車戦は43―18で快勝しました。当時、私は大八木軍団にいたので、デビュー戦を大八木さんたちに祝っていただいて。祝杯をあげていただきました。最終戦のワールド戦も「10」番で出たんですけど、そこは負けるんすよね。バイスキャプテン、フォワードリーダーの大八木さんが(負けたのは)フォワードの責任やと言われて、フォワード全員丸坊主にしろと。全国大会前にフォワードは全員丸坊主でした。

 大八木 よう覚えてるな。言った本人はまったく忘れてるわ。ほんで禁酒したんや。飲み過ぎやあという話になって。禁酒してる間に昭和が終わるんやな。

 藪木 最後、決勝戦は東芝に勝ちます。

 大八木 あのときのチームは本当にキックは下手やったな。藪木もそうやけど。

 藪木 神戸のバックスはキックが蹴れないのと、私が「10」番というのもあるんですけど、キックよりもパスを回して、展開ラグビーをしようというのが当時の日本ラグビー界にはほとんど見られなかった。斬新なラグビーを始めたんですね。

 大八木 いうならばプロップだってパスがうまいみたいなね。山下なんかもタッチフットして(パスが)うまくなったもんね。

 藪木 そうです。(それを表す)言葉は(当時は)なかったのですが、今でいうオフロードとか。

 大八木 東芝に勝って。

 藪木 日本選手権は大東文化大です。

 大八木 ラトゥとかおったんやね。ナモアも。

 藪木 途中、3点差か4点差につめられたのですが、最後は46―17で快勝しましたね。

 ◇藪木 宏之(やぶき・ひろゆき)1966年(昭41)3月12日、山口県生まれの57歳。山口・大津高からラグビーを始め、明治大―神戸製鋼。神戸製鋼では日本選手権7連覇に貢献。2019年に日本で開催されたワールドカップでは日本代表のチームメディアマネジャーを務めた。現役時代のポジションはスタンドオフ、スクラムハーフ。

 ◇大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれの62歳。伏見工からラグビーを始め、同志社大―神戸製鋼。同志社大時代は大学選手権3連覇、神戸製鋼時代は日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはロック。日本代表キャップ30。

 

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