【内田雅也の追球】甲子園球場をつくった人びと 新名所「O-SITE」誕生 97年前の汗と夢

2021年03月16日 08:00

野球

【内田雅也の追球】甲子園球場をつくった人びと 新名所「O-SITE」誕生 97年前の汗と夢
甲子園球場左翼席外周に誕生した「OBAYASHI-SITE」。スコアボードのモニュメントは見る方向で「甲子園」「大林組」と文字が変わる Photo By スポニチ
  「大阪城つくったの、だ~れだ?」「豊臣秀吉やろ」「間違い。正解は大工さん」という、とんち話がある。
 では、甲子園球場をつくったのは誰か。

 「こんどおやじがでっかい野球場つくりまんねん」

 甲陽中(現甲陽学院高)野球部員だった山野井萬(2006年、99歳で他界)は1923(大正12)年秋、1年後輩に洗面所で話しかけられた。

 父親とは阪神電鉄専務の三崎省三だ。当時は社長不在で実質ナンバーワンとして社業を取り仕切っていた。

 「そりゃ、ええこっちゃなあ」と応じた。04年、山野井から直接聞いた話である。

 同年夏(8月19日)、鳴尾球場で行われた全国大会(全国中等学校優勝野球大会)準決勝、甲陽中―立命館中戦で観客がグラウンドにあふれ出し、試合が1時間中断した。一塁手だった山野井は「えらい人でした。一塁線まで人波が押し寄せてきましたから」と間近で経験していた。高まる中等野球(今の高校野球)人気で、阪神電鉄が大球場建設を急ぐことになる事件だった。

 もちろん、三崎が大球場建設を進めたのは確かだ。若手技師、野田誠三に設計図作りを命じた。ただ、冒頭のとんちでいけば、つくったのは有名な“2人のセイゾウ”三崎でも野田でもない。総工費100万円で施工を請け負った大林組の名もなき土木作業員たちである。

 甲子(きのえね)の1924(大正13)年、3月11日に地鎮祭。16日に起工。きょう16日は97年前、甲子園球場建設の工事を始めた日なのだ。

 そんな時機に合わせたのか、阪神電鉄は15日、甲子園球場左翼スタンド外周に「OBAYASHI―SITE」(通称O―SITE)が誕生したと発表した。

 スコアボードを模したモニュメントは方向によって「甲子園」「大林組」と見え方が変わる。花々が咲く小さな公園は新名所となるだろう。関係者は待ち合わせ場所やインスタ映えの写真スポットにと望んでいる。

 命名権契約も交わし、大林組の名が甲子園に刻まれた。当時、作業員たちが流した汗を思う。

 夏の全国大会に間に合わせようと、昼夜兼行の突貫工事だった。7月31日完成までわずか143日間。玉置通夫『甲子園球場物語』(04年・文春新書)に<大林組の試算によると、現在同様のものを造ろうとすれば、工費約40億円、完成には1年かかる>とある。

 山野井は「大林はようやりましたなあ」と話していた。当時の甲陽中は建設現場のすぐ隣。通学帰宅で毎日、作業を見ていた。「カンテラさげて、夜もコンクリートミキサー回しとりました」
 徹夜作業には昼間の何倍も日当が出た。もちろん金もあったろう。しかし「東洋一の大運動場」を夢見た作業員には希望があったはずだ。

 「3人の石切職人」の話がある。ピーター・ドラッカーが『マネジメント』で引用している。

 ある村で3人の石切職人が作業をしている。大きな建物をつくっているようだ。旅人が「あなた方は何をしているのですか?」と問いかける。1人目は「金を稼いでいるんだよ」、2人目は「技術を磨いています」、3人目は「村人の憩いの場所となる教会を建築しています」と答える。

 甲子園球場は三崎が目指した「スポーツのメッカ」となった。三崎や野田が描いた夢に、工事に携わった人びとも胸を膨らませていたのだろう。

 タイガースはこの日、関東遠征に出た。甲子園をセンバツ球児に明け渡し、次に戻るのは公式戦開幕後4カード目、巨人戦の4月6日。22日間の「春のロード」だ。

 甲子園球場をつくった人びとの汗や夢を思い、本番への臨戦態勢を整える旅立ちである。=敬称略=(編集委員)

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