【選抜100年 世紀の記憶】進学校・北野「奇跡」の日本一 芦屋と地元対決 背景に戦後の混乱と学制改革

2024年03月05日 07:00

野球

【選抜100年 世紀の記憶】進学校・北野「奇跡」の日本一 芦屋と地元対決 背景に戦後の混乱と学制改革
梅田主将(右)が持つ優勝旗を先頭に場内一周する北野の選手たち=『北野高等学校野球部年史』より=
 スポニチ創刊から2カ月の1949(昭和24)年選抜は北野―芦屋と史上初の地元大阪―兵庫対決の優勝戦に6万人の大観衆が詰めかけた。優勝した北野は大阪随一の進学校。「奇跡」と呼ばれた背景には戦後の混乱期と学制改革の影響もあった。北野主将・梅田明と芦屋のエース・有本義明は後にスポニチに入社するなど、本紙との深い縁もあった。 (編集委員・内田 雅也)
 北野優勝に付いて回る語り草のプレーがある。延長10回裏、芦屋に4―4同点とされ、なお1死満塁。左中間にライナーが飛び左翼手が捕球。タッチアップから三塁走者が本塁へ頭から滑り込んだ。

 「芦屋優勝!」とラジオ中継のアナウンサーが叫んだ。だが北野左翼手・長谷川圭市は本塁には目もくれず、二塁に送球。飛びだしていた二塁走者を併殺に仕留めた。

 本塁前に整列に行った芦屋のエース・有本義明(92)は球審・浜崎隆に「守りにつきなさい」と押し返された。第一神港商―慶大出の浜崎は練習で指導を受け、よく知っていた。翌年パ・リーグ審判員となり球審担当最多記録をつくる名審判だった。「本塁生還より二塁アウトが早いという。当時はそんなルールを知らず、みんなポカンとしていた」

 好判断の長谷川は「いつも練習でやっていたプレー」と話す。「打球に応じて投げる先を想定していた。二塁は空だったが、必ずカバーに来ると思っていた」。二塁手・市石巌は「捕球体勢から二塁送球が来ると思った」と話し、アウトを宣告した二塁塁審・久保田信一(久保田運動具店)が「ニコッと笑った」のを覚えていた。

 土壇場で生きた日々の練習を指導していたのが監督の清水治一だった。北野OBで当時大阪外大(現大阪大)学生の23歳。史上最年少の優勝監督である。

 モットーは「精いっぱいを超えろ」。自分の限界を超えろというわけだ。面倒見がよく、選手は名前を音読みして「ジーやん」と慕った。自宅でマージャンを打って遊んだ。

 投手は先発完投が当たり前の時代に左腕軟投派の多湖隆司と右腕速球派の山本次郎の両投手を使い分けた。

 後に児童教育評論家になり、「まき・ごろう」の名で童話作家としても活躍した。自叙伝と言える『おれたちゃ高校の野球バカ』(黎明書房)は「勉強とスポーツは両方そろって初めて社会に通用する人間を創る」の信念を描いている。

 昔も今も大阪随一の進学校。当時のメンバーも山本が東大、長谷川、市石は京大、主将の梅田、多湖は慶大、捕手の広瀬繁雄は同大……に進んだ。

 また当時の保護者が近所に住む阪神の捕手・土井垣武を臨時コーチに招いた。プロアマの壁などなかった時代である。社会人・オール大阪はよく北野で練習をしていた。別当薫(後に阪神)から打撃指導を仰ぎ、多湖は投球指導を受けていた。

 終戦後3年半、食糧難の時代だった。桐蔭(和歌山)遠征は「ふかし芋を出します」につられて出向いた。北野は前年選抜にも出ており、遊撃手の市村博は「甲子園に出ればライスカレー、銀シャリが食える」と喜んだ。出場校は米持参で甲子園球場内に宿泊した。

 梅田の長女・祐子(63)、次女・彰子(56)は合わせて「ユウショウ」と名づけられた。ただ父は優勝の話より「ひもじかった話ばかり。ですから服など買ってくれませんが、食事はよく食べさせてくれました」と口をそろえる。

 梅田は慶大卒業後の1955(昭和30)年、スポニチに入社、事業部で活躍した。吹田・千里山の自宅から大阪・堂島まで社旗を翻し車で通勤していた。

 梅田の父・三次郎はスポニチ創刊時の専務で後に代表取締役を務めた人物だった。

 この49年、2月1日に社員わずか13人で創刊号を出した。北野優勝を伝える4月7日付は第65号。本日付の紙齢は2万6855号だ。当時はタブロイド判4ページ建て、1部1円50銭だった。

 準優勝投手の有本も慶大からスポニチに入社、名物野球記者として健筆をふるった。後から思えばスポニチと縁の深い対戦だった。

 梅田三次郎は選抜選考委員を務めていた。出場16校を決める選考委員会は2月1日、深夜まで及んだ。三次郎は帰宅後、明に「甲子園行きが決まったぞ。みんなに伝えてやれ」と言った。明は電話したが、選手たちは皆、眠っていたそうだ。

 当時の選考は地域を分けずに行われた。北野は16校中15番目の選出だった。野球専門誌は最下位のDランクと評価した。監督の清水は「低評価に奮起して快進撃につながった」と語っている。1回戦は16番目選出で同じくDランクの日川(山梨)に10―1と圧勝。準々決勝で前年夏準優勝の桐蔭(和歌山)に6―3、準決勝で優勝候補筆頭の岐阜商に3―2と競り勝った。

 決勝は春夏を通じて初めてとなる大阪―兵庫の阪神対決。注目度は高く、大阪の中心街には両エースの名前からタコとアリをあしらった絵が掲げられた。

 有本の記憶では「試合が進むにつれ、スタンドが埋まっていった」。平日の午後「おもろい試合をしてるぞと地元の人たちが駆けつけてきた」。6万観衆札止めだった。

 決勝は延長12回表、スクイズなどで2点を勝ち越し逃げ切った。優勝旗を受けた梅田は校長・林武雄が「これからが大変」と難しい顔をしていたのを覚えていた。「奇跡」と呼ばれた快挙だった。

 梅田の妻・寛子(87)は4年前他界した夫の霊前で思い返す。「晩年まで仲間が大勢来てくれて、楽しく飲み、話をしていました。野球で幸せな人生が送れたのだと思います」。天国を思う。また、選抜の球春が巡り来る。 =文中敬称略=

 《GHQ指導で大会消滅危機も》49年選抜は当時「第2回選抜高校野球大会」とされていた。47年からGHQは「全国大会は年1度」と指導し、大会消滅の危機にあった。学制改革で新制高校1年目の48年は主催の毎日新聞などが大会名から「全国」の名称を外し「第1回」「地元中心の招待大会」と折衷案を示して開催にこぎつけた。その後、GHQの意向を受けた文部次官通達で「教育関係団体の主催、運営を期す」とあり、49年は表面上、毎日新聞は主催でなくなり、日本高野連の主催として開かれた。

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