「光る君へ」紫式部なぜ「源氏物語」執筆?道長要請説&原本残らずゆえの謎…時代考証・倉本一宏氏が解説

2024年08月18日 20:45

芸能

「光る君へ」紫式部なぜ「源氏物語」執筆?道長要請説&原本残らずゆえの謎…時代考証・倉本一宏氏が解説
大河ドラマ「光る君へ」第31話。まひろ(吉高由里子)は一条天皇に献上する物語の構想を練り…(C)NHK Photo By 提供写真
 【「光る君へ」時代考証・倉本一宏氏インタビュー 】 女優の吉高由里子(36)が主演を務めるNHK大河ドラマ「光る君へ」(日曜後8・00)は18日、第31回「月の下で」が放送され、ついに主人公・まひろ(紫式部)が「源氏物語」を書き始めた。いかにして「源氏物語」は誕生したのか。時代考証を担当する歴史学者・倉本一宏氏(66)が“最速解説”する。
 <※以下、ネタバレ有>

 「ふたりっ子」「セカンドバージン」「大恋愛~僕を忘れる君と」などの名作を生み続ける“ラブストーリーの名手”大石静氏がオリジナル脚本を手掛ける大河ドラマ63作目。千年にわたって読み継がれる「源氏物語」を紡ぎ上げた女流作家・紫式部の波乱の生涯を描く。大石氏は2006年「功名が辻」以来2回目の大河脚本。吉高は08年「篤姫」以来2回目の大河出演、初主演となる。

 まず、劇中の流れを振り返る。

 まひろは元来、文学少女。「学問が好きなわけじゃないわよ。漢詩や和歌、物語が好きなだけ」(第2回)。代筆業を行ったこともある(第2回)。近江・石山寺を訪れた際には、愛読書「蜻蛉日記」の作者で藤原兼家(段田安則)の妾・藤原寧子(財前直見)と初対面。「私は日記を書くことで、己の悲しみを救いました。あの方との日々を日記に書き記し、公にすることで、妾の痛みを癒やしたのでございます」。“書くこと”を後押しされた(第15回)。

 <第27回>まひろは石山寺で藤原道長(柄本佑)と再会。「越前には、美しい紙があります。私もいつか、あんな美しい紙に、歌や物語を書いてみたいです」と願望を明かした。

 <第29回>ききょう(ファーストサマーウイカ)が亡き藤原定子(高畑充希)のために書き進めた「枕草子」を持参。まひろは「(定子の)影の部分も知りたいと思います。人には光もあれば、影もあります。人とはそういう生き物なのです。それが、複雑であればあるほど、魅力があるのです」と感想を伝えた。

 <第30回>寛弘元年(1004年)、夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介)を亡くしてから3年目。まひろは「カササギ語り」を執筆し、女房たちの間で評判に。道長の悩みの種は、一条天皇(塩野瑛久)と藤原彰子(見上愛)の仲が一向に深まらないことだった。

 藤原行成(渡辺大知)は「帝は書物がお好きなので、『枕草子』を超える面白い読み物があれば、お気持ちも和らぐのではございませんでしょうか」と提案し、藤原公任(町田啓太)も「我が妻、敏子(柳生みゆ)がやっておる学びの会に、面白い物語を書く女がおるようだ。先の越前守、藤原為時(岸谷五朗)の娘だ」とヒント。しかし、娘・藤原賢子(福元愛悠)が「カササギ語り」を燃やしてしまった。

 <第31回>道長はまひろを訪ね、彰子のための新しい物語を依頼。まひろは「枕草子」やあかね(泉里香)に触発され、自分らしい物語を書こうと決意。ふさわしい紙を手配してほしいと道長に文を出した。そして、道長の嘘を見抜き、物語は一条天皇のためのものだと知る。「人とは、何なのでございましょうか?」「人はなぜ、月を見上げるのでしょう」。道長と語り明かし、執筆に没頭した。一条天皇は献上された物語を読み始める。

 「いづれの御時にか、女御更衣があまたお仕えしている中に、それほど高い身分ではありませんが、格別に帝のご寵愛を受けて、栄える方がおりました。宮仕えの初めから、我こそはと思い上がっていた方々は、その方を目障りなものとして、蔑み、憎んでいたのです」

 紫式部(藤式部)が「源氏物語」を書き始めたのはいつ頃なのか。「宣孝死去後、彰子への出仕以前」が江戸時代初期以来の通説となっているが、倉本氏もこの時期の可能性が高いとみる。

 一方、執筆の動機については「石山寺に参籠中、琵琶湖の湖面に映える十五夜の名月を目にし、『今宵は十五夜なりけり』と『須磨』の巻から起筆した」という伝説や、「夫に先立たれた悲しみを自ら癒やすため」などの説がある。倉本氏は自著「紫式部と藤原道長」の中で「とんと見当がつかない」としながらも、歴史学の立場から「道長要請(命令)説」を展開している。

 主な理由は3つ。「源氏物語」執筆には(1)物理的には、当時、貴重で手に入りにくかった紙が大量に必要だった(2)特定の読者(一条天皇や彰子)を想定しないでは、あれほど壮大な物語を構想できなかった(3)政治的な要素がある作品的には、実際に出仕して身を置き、宮廷政治の機微を見抜く眼力が必要だった。3つとも、道長のバックアップがなければ、貧しい無官の学者の娘には困難、と推定した。

 紫式部が「源氏物語」を書き始めたとみられるのが長保3年(1001年)。彰子に出仕したとみられるのが寛弘3年(1006年)暮れ。彰子は寛弘4年(1007年)暮れに懐妊し、寛弘5年(1008年)9月に一条天皇の皇子(のちの後一条天皇)を出産した。

 「書き始めたのは、彰子が一条の中宮になったものの、ほとんど会ってももらえなかった時期で、一条と彰子が“本当の夫婦”になった寛弘3年、紫式部はそこまでに書いていた『源氏物語』を持って出仕。一条は続きが読みたいと食いついてくる。続きは須磨に流された主人公・光源氏が都に召還されてからの権力者の物語で、宮中にいなければ書けない内容。紫式部はたぶん実家に帰って書いていたと思いますが、『源氏物語』のおかげで一条と彰子の関係がより深まって懐妊・出産。一連のタイミングがよすぎるので、これはすべて道長の思惑通り事が運んだとみています」

 倉本氏が「道長要請(命令)説」に思い至ったのは、実は東京大学在学中。「文章にして出版したのは最近ですけど、1978年に入学して学部生の頃に塾講師のアルバイトをしている時から既に言っていましたね。予備校で古文を教えていた院生の時にも、もう言っていましたから、学部生の頃から思いついていたんじゃないでしょうか。これというきっかけまでは覚えていませんが、『源氏物語』は高校生の頃から研究会で読んでいて、一条朝の後宮情勢を考えると“これは道長が書かせたんじゃないか”と考えました」と振り返った。

 そもそも「源氏物語」の誕生・成立に謎が多いのは、中世以降の写本しか存在しないため。増補や改作を除き、紫式部が書いた原文は残っていない。

 「要するに、積極的に残さなかった、ということです。道長の『御堂関白記』など、男性貴族が漢文で書いた日記(古記録)は残さないといけないが、女性が仮名で書いた『源氏物語』などは残すほどのものではない、というのが当時の男性貴族の価値観。だから残っていないんです」

 藤原北家嫡流・近衞家の「陽明文庫」(京都市右京区)には「御堂関白記」の自筆本14巻・古写本12巻が伝わるが「応仁・文明の乱(1467~1477年)が起こりそうになった時、『御堂関白記』をはじめ重要な史料は北山に疎開させたんですけど、『源氏物語』の良質な写本は置いていって、応仁の乱で屋敷とともに焼けてしまいました。あれが残っていれば、現存する中で最も貴重な写本になったかもしれません。『源氏物語』は男性貴族にとって、どうしても残さないといけないほどの価値がなかった、ということの象徴的な例ですね」と解説。「それに、全巻(54帖)を一括して持っている人が案外少なく、多くの人は順番もバラバラ、手に入った帖から読んでいたと思われます。それも影響して、いつの間にか散逸してしまった、ということもあったんじゃないでしょうか」と付け加えた。

 原文やそれに近い写本が残っていれば、歴史学としての「源氏物語」の研究も変わっていた可能性はあるのか。

 「あらすじすら変わる可能性もあると思います。男性貴族の日記(古記録)は割と元の姿のまま写すんですが、文学は写す時に内容を書き換えることもあるのですよ。和歌が最たるものですけど、写す人が“こっちの方がいいな”と。だから、今残っている一番古い写本でも、紫式部が書いた原文から何回か書き換えられていて、元の姿とは違うはずなんです。そう考えると、『源氏物語』も元々どうやって生まれたのか、本当のところは“分からない”が正解だと思います」

 歴史の醍醐味と奥深さ、大河ドラマの面白さを再度、実感した。

 ◇倉本 一宏(くらもと・かずひろ)1958年(昭和33年)、三重県津市生まれ。83年、東京大学文学部国史学専修課程卒業。89年、同大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。97年、博士(文学、東京大学)。国際日本文化研究センター(日文研)名誉教授、総合研究大学院大学(総研大)名誉教授。主な著書に「一条天皇」「現代語訳 小右記」(吉川弘文館)「藤原道長『御堂関白記』全現代語訳」「藤原行成『権記』全現代語訳」(講談社学術文庫)「小右記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」「権記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」(角川ソフィア文庫)。新刊「平安貴族列伝(SYNCHRONOUS BOOKS)を5月、「平安貴族の心得 『御遺誡』でみる権力者たちの実像」(朝日新書)を6月、「平安時代の男の日記」(角川選書)を7月に刊行するなど、精力的な活動が続く。

 【参考文献】倉本一宏「紫式部と藤原道長」(講談社現代新書)、「大本山石山寺」公式サイト

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