【コラム】金子達仁
神になることを拒んだ男 メッシの壮大な英雄伝
2022年12月21日 12:00
サッカー
だが、伝説的な決勝戦が終わった今になって思う。
メッシは、そもそも「神」になろうとしていなかったのではないだろうか。
「神」と崇(あが)められた男に、仲間はいなかった。バティスタ、ブルチャガ、カニーヒア。彼の周囲を固めていたのは、「仲間」ではなく「下僕」だった。自分たちは徹底してマラドーナに仕え、その代償として勝利という褒賞に預かる。86年も、90年も、結果的にドーピング疑惑で大会を追放されることになる94年も、マラドーナとアルゼンチンの関係は変わらなかった。
22年のメッシとアルゼンチン代表は違った。
メッシが特別な存在であったことに変わりはない。だが、南アフリカやブラジル、ロシアでのアルゼンチンが、メッシにマラドーナの役割と働きを託し、裏切られたチームだったとしたら、カタールでのアルゼンチンには、ロンドン五輪における北島康介と仲間たちのような関係性があった。
康介さんを、手ぶらで帰すな。
すでに全盛期ではないことは、アルゼンチンの選手たちも知っていた。かつてのように、頼り、縋っているわけにはいかない。だが、メッシでなければできない仕事があることも、彼らはわかっていた。そして、ここで勝てなければ、未来永劫(えいごう)、メッシがアルゼンチンの人々から批判されるであろうことも。
ならば、全員が少しずつ、自分の身を削る。削って、メッシを守備の負担から解放する。そして、自分たちの背番号10を、何としても世界の頂点に立たせてみせる。チームには、そんな気概が満ち満ちていた。
一度は試合を決定づけたかと思われた2点が決まった際、得点者のディマリアは涙を浮かべていたように見えた。3点目が決まった時もそうだった。まだ試合が終わったわけではないのに、経験豊富な名手が感極まる。普通だったらありえないことが、22年12月18日のアルゼンチンには起きていた。
それは、「神」と「下僕」との間に生じる感情ではなかった。どんどんと神の域に近づくにつれ、マラドーナはかつての仲間を切り捨てていった。79年ワールドユースで最高のパートナーだったラモン・ディアスとは、口も利かない関係になったともされる。
だが、メッシと同世代のディマリアにとって、メッシは依然として仲間だった。艱難(かんなん)辛苦を乗り越えてきた、昔ながらの仲間だった。メッシが下僕になることを求めていれば、ついえていたかもしれない関係だった。仲間のためだからこそディマリアは涙を流し、だからこそアルゼンチンは2―0から追いつかれても、3―2からまた追いつかれても、踏ん張ることができたのかもしれない。
すべてはメッシのために。メッシはすべてのために。
この決勝で勝てばメッシは「神」になる。そう書いたわたしは、間違っていた。W杯優勝。2度目の大会MVP。それでも、彼とアルゼンチンがカタールで描いたのは、新たな神の誕生劇ではなかった。わたしたちが目撃したのは、神になることを拒んだ男にしか綴(つづ)れなかった、壮大なサーガ(英雄伝)だった。(金子達仁=スポーツライター)