【内田雅也の追球ワイド版】「終戦の日」に振り返る 99歳甲子園の戦争体験

2023年08月15日 08:00

野球

【内田雅也の追球ワイド版】「終戦の日」に振り返る 99歳甲子園の戦争体験
1943年8月、戦時中の金属回収で取り壊される甲子園球場の大鉄傘(毎日新聞社提供) Photo By 提供写真
 【内田雅也の追球ワイド版】来年の8月、人間で言えば満100歳を迎える甲子園球場は10~20代の青少年時代、戦争の影響を強く受けて育った。名物だった大鉄傘は戦時中の金属供出で撤去された。外野には陸軍輸送隊が入りこみ、内野はイモ畑となった。スタンド内施設は軍需工場などに転用された。戦後78年の終戦の日に、甲子園の戦争体験を振り返った。
 いま99歳の甲子園球場に戦争を意識し始めたのは14歳の早春だった。1939(昭和14)年2月4日から12日まで、球場で「戦車大展覧会」が開かれた。

 日中戦争3年目、軍部から戦車の威力誇示と戦意高揚の意図から要請があった。近畿駐在の陸軍戦車部隊と大阪の砲兵工廠(こうしょう)から大小戦車の出展があった。外地からは砲弾痕をとどめた敵国戦車も並んだ。

 戦車は午前と午後、特設の小山や沼地を走った。当時の甲子園球場長・石田恒信(91年、85歳で他界)は手製本『続・甲子園の回想』で<芝生は駆動する鉄の轍(わだち)に深く踏み荒らされ、見るも無残な荒廃の場と成り果て>と戦火到来の予感を強めていた。

 「心身鍛練」「総力興亜」と同年夏の甲子園大会ではスコアボードに戦意高揚のスローガンが掲示された。

 41年7月12日、学徒の全国的移動を禁止する文部次官通達が出て夏の甲子園大会は予選途中で中止となった。

 同年12月8日、太平洋戦争が始まった。当初は戦勝ムードで、42年は文部省と大日本学徒体育振興会の主催で夏の甲子園大会は開催された。大会史から除外された「幻の甲子園」である。優勝は徳島商。決勝で敗れた平安中(現龍谷大平安)の投手・冨樫淳は初代甲子園球場長で阪神球団専務、冨樫興一の次男。戦後はタイガースでプレーし、平安監督として56年夏、全国優勝に導いている。

 43年、甲子園球場が19歳を迎える夏だった。3月に戦時行政特例法が公布となり、金属回収が徹底された。

 甲子園球場の名物だったスタンドを覆う屋根、大鉄傘が標的となった。海軍に目をつけられ「毎日ヤイヤイ言ってきた」と阪神電鉄専務の泉谷平次郎が社史『輸送奉仕の五十年』で語っている。

 返事を渋っていた阪神電鉄も抵抗できなかった。8月6日、取り壊し作業が始まった。本格的な撤去工事に入る前日、8月18日、タイガースは名古屋(現中日)8回戦で、監督兼投手の若林忠志が石丸進一と投げ合い、1―0の完封勝利を飾っている。大鉄傘に別れを告げる快投だった。

 球場職員で戦後、球場長に就く川口永吉(71年、57歳で他界)は著書『甲子園とともに』で<痛恨事は名物大鉄傘の供出>と嘆いている。<鉄傘が外されたとき、われわれ球場関係者はその樋(とい)の中で名残を惜しんで寝た。雨の水を流す樋の中は大の男が横たわれるほど大きなものだった>。甲子園球場も泣いていた。

 解体は11月までかかった。神戸製鋼へ1トン=90円、全部で1000トン=9万円の安値で売られた。終戦まで置きっぱなしで海軍省人事部長の話として「あれで駆逐艦が半分しかできん。それも造らずじまいであった」と先の社史にあった。

 大鉄傘供出は企業や寺社の鐘など金属回収の宣伝に使われた。

 43年10月、内外野スタンド下の部屋は軍需工場や資材倉庫に転用された。三塁側アルプススタンド下にあった自慢の室内プールは大阪大の水中音響研究所となった。潜水艦など敵艦の接近を音で察知する研究に使われた。

 44年春になると陸軍の近畿軍需輸送隊が常駐し、外野は軍用トラック置き場となった。

 プロ野球の日本野球連盟は日本野球報国会と改称して続けた。選手の応召が相次ぎ、残った選手も平日は産業戦士として働き、試合は土日に行った。戦闘帽姿でプレーした。

 甲子園球場が20歳を迎えた8月を最後に公式戦は打ち切られた。11月13日、報国会は一時休止を発表。それでも45年元日から5日まで在阪4球団で残った選手を2チームに分けて対戦する正月大会を甲子園、西宮で開いた。最終戦が行われた5日は「プロ野球が死んだ日」と言われる。

 45年4月、米軍は沖縄に上陸。食糧事情も極端に悪化した。球場長・石田は<ついにたまりかね、長年手塩にかけた内野のダイヤモンドに万感の思いをこめて「ぐさり」と最初の一鍬(くわ)を打ち込んだ>と記した。畝を作り、サツマイモの苗を植えたのだ。阪神の呉昌征は台湾・嘉義農林卒の経歴から耕作指導員として土壌改良にも取り組んだ。

 8月6日の西宮大空襲で焼夷(しょうい)弾攻撃を受けた。燃料に引火、一塁側アルプスから右翼スタンド下は3日間燃え続けた。グラウンドに約6千発が突き刺さっていた。

 やがて8月15日がやって来た。石田は甲子園球場のラジオが不調のため、自転車で上甲子園の浄水場まで行き玉音放送を聴いた。終戦時の球場を石田が描いた図が残っている。

 球場職員がまず行ったのはイモ畑をつぶし元に戻す作業だった。球場北側にあった甲陽学院の生徒に手伝ってもらい2週間かけて整地した。イモは親指大に育っていたが、収穫を待たずに本来の姿に戻したのは球場職員たちの意地だったろう。

 戦後の甲子園は丸裸だったが、51年8月、内野スタンドにジュラルミン製の屋根が銀傘として復活した。82年にアルミニウム合金製にふき替えられた。

 「平成の大改修」で2009年にはガルバリウム鋼板製に架け替えられ、内野スタンド全体を覆った。

 今年7月28日、甲子園球場100周年記念事業を展開中の阪神電鉄は銀傘の拡張構想を発表した。戦前のようにアルプス席まで広げる「大銀傘」計画だ。

 観客の猛暑対策として再来年の大阪万博後の着工を目指す。次の100年を見据える。

 思えば大鉄傘は女性に人気で「モガ」の姿が多く見られるようになった。いわば平和の象徴だった。戦火を乗り越えた甲子園は100歳を越え、生まれ変わろうとしていた。=敬称略=(編集委員)

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