【内田雅也の追球】キャンプでの発掘と交流 最後の休日に偉大な先人をしのび、エールを

2024年02月22日 08:00

野球

【内田雅也の追球】キャンプでの発掘と交流 最後の休日に偉大な先人をしのび、エールを
71年2月、東映の伊東キャンプで前監督の松木謙治郎氏(右)と語らう張本勲氏 Photo By スポニチ
 キャンプは新戦力発掘の場である。また、練習で、指導者と選手が心を通わせる場でもある。
 吉田義男が立命大を中退、19歳で阪神入りした1953(昭和28)年のキャンプは鹿児島・鴨池球場で行われた。監督は松木謙治郎である。

 明大先輩で、名ノッカーとして知られた岡田源三郎(名古屋金鯱軍初代監督)に臨時コーチを依頼していた。

 岡田は遊撃手・白坂長栄と新人・吉田を見比べて松木に伝えた。「おい、守備範囲が一間(約1・8メートル)以上違うぞ」

 松木は「当たり前でしょう」と返した。

 「いや、違うんだ。吉田の方が広いんだよ」

 初対面でスカウトの青木一三に「ボールボーイを連れてきたのか」と冗談を言った小さな吉田の守備力に松木も目を見張った。

 1年目から遊撃手として使い続けた。実に38失策を記録したが、辛抱強く使った。吉田は著書『阪神タイガース』(新潮新書)で松木への感謝を記している。<実戦での経験が何よりの宝になる。試合での痛い失敗を積み重ねながら選手は成長していくものだ>。

 松木は球団創立時のメンバーで、初代主将だった。「親分肌」で知られた。戦前戦後と2期7年、監督を務めている。

 21日は命日だった。86年、肝硬変のため他界した。前年に日本一を見届け、招待された祝賀パーティーが最後の公の場となっていた。

 阪神がいま滞在する沖縄は松木にとっては戦時中に派遣された地だ。著書には「ノーモア 鉄の暴風」との自筆が記されている。激しい沖縄戦を戦い、捕虜となった。いまのキャンプ地・宜野座にほど近い屋嘉の収容所で過ごした。何度か跡地に建つ記念碑を詣でた。

 戦後、阪神に監督として復帰し、東映(現日本ハム)でもコーチ、監督を務めた。打撃コーチ時代に浪商(現大体大浪商)から入団してきたのが張本勲(本紙評論家)である。

 幼少時代のやけどで右手が不自由だった張本に松木は「ホームラン打者より中距離打者を目指せ」と励まし、連日連夜、特訓した。血の通った指導だったと張本は言う。「良き指導者との出会いが上達に欠かせない。私の師は松木さんだった」

 この日は阪神キャンプ最後の休日だった。偉大な先人をしのび、キャンプで指導者と選手の良き交流にエールを送りたいと思う。 =敬称略=(編集委員)

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