【曙さん評伝】バスケ断念角界へ 長野五輪で横綱土俵入り プロレスでは武藤敬司に師事し開花

2024年04月12日 04:30

相撲

【曙さん評伝】バスケ断念角界へ 長野五輪で横綱土俵入り プロレスでは武藤敬司に師事し開花
98年、長野五輪開会式で土俵入りする曙 Photo By スポニチ
 大相撲で史上初の外国出身横綱となり、格闘家としても活動した元横綱・曙の曙太郎(あけぼの・たろう、旧名チャド・ローウェン)さんが4月上旬に心不全のため東京都内の病院で死去した。54歳だった。
 ハワイ・オアフ島で生まれた曙ことチャド・ローウェンはハイスクール時代には身長は2メートル近くに成長したという。バスケットボールではハワイの高校選抜メンバー入りし、パシフィック大に進学。だが将来のことでコーチと対立し3カ月で中退。しばらくして大相撲で活躍した高見山の親族から相撲を紹介された。87年2月に来日。幼なじみの高見旺、高見州と同じ東関部屋に入門した。

 初土俵は88年春場所。「大海」のしこ名でデビューしたが、当時「大魁」がいたため、わずか1場所で「曙」に改名した。長身を生かしたリーチの長い迫力満点の突っ張りを武器に番付を駆け上がり、初土俵から12場所で十両に昇進。十両も3場所で通過し、90年秋場所で新入幕を果たした。91年春場所には小結、夏場所で関脇に昇進した。同じハワイ出身の師匠に加え、先輩・小錦らの存在も大きく成長を支えることになった。

 92年初場所で13勝、夏場所でも13勝で初優勝を飾り名古屋場所で外国出身では2人目の大関に昇進した。同年九州で14勝1敗で2度目の優勝を果たすと、93年初場所に13勝を挙げ連続優勝。場所後には外国出身力士初の横綱(第64代)に昇進した。98年長野冬季五輪の開会式では横綱土俵入り。しかし、体重増加が膝と腰への悪影響を及ぼし94年以降は休場が目立つようになった。両膝は限界に近づき、01年初場所後に引退を決断。優勝は11回だった。

 引退後は東関部屋付きの曙親方として高見盛、潮丸ら後進の指導に励んでいたが、03年11月に相撲協会を電撃退職。K―1転向を発表した。2カ月後の大みそか「K―1 Dynamite!!」に参戦したが、ボブ・サップに失神KO負け。K―1では1勝のみと振るわず、戦いの舞台をプロレスへと移し05年には米WWEのマットにも登場。その後、全日本プロレスに本格参戦し武藤敬司に師事。「武藤部屋」で非凡な素質を開花させプロレス大賞新人賞を獲得するなど大きな成功を収めた。

【武藤敬司がしのぶ 何でも豪快だった】
 ○…曙さんのプロレス時代の師匠でもある武藤敬司は「食べることも遊ぶことも何でも豪快だった。豪放磊落(らいらく)という言葉がふさわしい、昭和の時代を漂わせる、ひと昔前の横綱だった」としのんだ。05年8月、格闘技から転向した曙さんと武藤の化身グレート・ムタが対戦。その後は「武藤部屋」で英才教育を受け、師弟コンビでプロレス大賞最優秀タッグを受賞した。「(プロレスの本場米国の)ハワイ出身でもあったのでプロレスに対する受け入れが早かった。技も体も大きかったのでプロレスラーとして資質はあった」と述懐した。

 ▼谷川貞治氏(元K―1プロデューサー) 2003年の九州場所。アポなしで高砂部屋の朝稽古に押しかけ、電信柱の陰で口説いたK―1参戦。「サップと試合しませんか?」「サップかぁ」一夜で口説けた奇跡の大逆転。曙太郎さんのご冥福をお祈りします。(公式Xから)

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