【選抜100年 世紀の記憶(2)】「1・17」から激動の73日間が指導者・永田裕治の「原点」

2024年01月16日 06:00

野球

【選抜100年 世紀の記憶(2)】「1・17」から激動の73日間が指導者・永田裕治の「原点」
1995年第67回大会、(右から)報徳学園、神港学園、育英の兵庫勢3校が出場した Photo By スポニチ
 1995年1月17日に発生し甚大な被害をもたらした阪神大震災から、あす17日で29年となる。同年の第67回選抜高校野球大会は開催が危ぶまれた中で「復興・勇気・希望」をスローガンに実施された。被災地の兵庫県から異例の3校が出場。報徳学園監督として甲子園初采配だった永田裕治氏(60、現日大三島監督)にとっても忘れることのできない春だった。 (取材・吉村 貢司)
 どれだけの月日が過ぎようと、永田裕治監督にとって1995年の選抜は特別であることに変わりない。94年4月に母校の監督に就任し、初めて挑んだ聖地。恐怖、不安、葛藤…負の要素を抱き続けながらもつかんだ勝利を思い出すたびに、こみ上げるものがある。

 「兵庫勢では3番目の試合。育英、神港学園が勝って(応援してくれた被災者のためにも)どうしても勝ちたかった。相手は好投手の岡崎。どうしたら勝てるんかなと。勝てたことがうれしかった」

 1回戦最後の試合だった北海(北海道)戦。前年夏の甲子園大会8強で国体優勝の原動力となったエース岡崎光師の前に6回まで無安打に封じられ0―3の劣勢。7回に馬淵広陸の初安打を足掛かりに1点を返すと8回は2つの敵失と四球で2死満塁。4番・中野大志の右翼線にポトリと落ちる幸運な二塁打で3人の走者が一気に生還し逆転に成功した。直後の8回裏をゼロに抑えると「よっしゃ勝った!」と勘違い。選手らにもう1イニングあることを告げられると、そのまま円陣に加わり主将の代わりに声出しするまでに興奮していた。

 前年の秋季近畿大会で8強に入り、選抜出場を信じて練習を続けていた1月17日。西宮市内の自宅で大きな揺れに襲われた。部屋の本棚が倒れたものの無事で、別の部屋で寝ていた妻と子供2人にはタンスが倒れた。傾くと同時に扉が開いたことで空間ができ奇跡的に難を逃れた。その後、バイクで自身の両親が住む実家に向かうと1階部分がなくなっていた。母親が1階部分で就寝しており覚悟したが、こたつの中に逃げ、その後、助け出されたという。

 身内の無事を確認すると「グラウンドが心配だった」と自家用車に妻と子供2人を乗せて学校へ向かった。隆起し地割れした部分にノックバットが入り込んでいたという中、マウンド上に車を止めて一夜を過ごした。

 部員の無事な知らせが続々と届く中で2人の安否確認が取れず、余震が続く中、バイクで探しに行った。芦屋市在住の1人は近くの小学校で避難生活を送りトイレで使用する水をプールから運ぶ姿を見つけた。被害が特に甚大だった神戸市長田区在住の部員が住んでいた付近は焼け野原と化していたが、家があったと思われる場所に打ち込まれたくいに「“無事”とマジックで書いてあった」と言い、その夜に本人から連絡を受けた。

 「選抜は頭にあったが、この世のものとは思えない光景を見ただけに、やってる場合じゃないだろう、と」

 一方で「救われた」と表現したのも野球だった。「子供たちがグラウンドに来て、わずかな時間でも笑顔でキャッチボールをする。今なら“真剣にせえ”と怒るけど、本当の笑顔やろな。遊びでやっていない。喜びをかみしめていた」

 大会に入ると被災者の声に救われた。期間中はJR甲子園口の宿舎から自転車で移動。3月31日も一列に並んで商店街を通ると、あちこちから「頑張りや」の声とともに拍手で送られ、勝利後に戻ってきた時も「ようやった」と拍手で迎えられた。「忘れもせんわ」と声を震わせた。

 チームとして小学校で炊き出しをするなどボランティア活動などに従事する中で“若い力”のすばらしさを改めて感じ「怒るのではなく、子供たちの心を動かさないといけない」と自らも心を動かされた。「1・17」からの激動の73日間が指導者・永田裕治の「原点」となっている。

 ◇永田 裕治(ながた・ゆうじ)1963年(昭38)10月18日生まれ、兵庫県出身の60歳。報徳学園3年時の81年に外野手として春夏連続で甲子園出場し夏は全国制覇。中京大卒業後、桜宮コーチ、報徳学園コーチを務め94年4月に監督就任。2002年選抜で優勝し17年選抜後に退任。20年4月から日大三島で監督を務める。甲子園通算23勝。

 《震災のたび被災者に寄り添う》永田裕治監督は、東日本大震災が発生した2011年の選抜に出場した際も被災地を憂い、今年の元日に発生した能登半島地震でも即座に被災地の知人に連絡を取った。無事だったが家屋の倒壊などを知らされた。「今も(報道機関が)現地の報道をいろいろしてくれるけども(実際に被害に)遭った者しか分からないこともある」。言葉を選びながら、被災者に寄り添う姿勢をみせた。

 【2011年は大会スローガン「がんばろう!日本」】
 2011年の第83回大会は、開幕直前の3月11日に東日本大震災が発生。死者・行方不明者2万人以上という未曽有の大災害に、開催、延期、中止など賛否両論が噴出した。

 同15日の抽選会は被災地にある東北(宮城)は欠席。主催者側は熟考を重ねた末、同18日に開催を決めた。大会スローガンに「がんばろう!日本」を掲げ、開会式は入場行進距離を縮めるなど簡素化し、試合ではアルプス席での鳴り物応援を禁止。入場料収入一部を義援金とし、大会期間中は募金箱を設置して、義援金と募金を被災地に送ることも決めて開催に踏み切った。

 開会式では半旗が掲げられ、東北の選手たちは喪章を着け中堅からマウンド付近まで行進。創志学園(岡山)野山慎介主将の「生かされている命に感謝」という選手宣誓が感動を呼んだ。被災地から出場した東北、大館鳳鳴(秋田)、水城(茨城)は初戦敗退し、光星学院(青森)は2回戦敗退。東北の試合には兵庫県内の14校が友情応援に駆けつけた。大会は東海大相模(神奈川)が11年ぶり2度目の優勝を飾った。

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