【選抜100年 世紀の記憶】「デカいな」 投げ勝った大阪桐蔭・藤浪が語る 花巻東の「4番・投手」大谷

2024年02月20日 08:00

野球

【選抜100年 世紀の記憶】「デカいな」 投げ勝った大阪桐蔭・藤浪が語る 花巻東の「4番・投手」大谷
12年3月20日、対戦を翌日に控え、健闘と誓いあう大阪桐蔭・藤浪(右)と花巻東・大谷 Photo By スポニチ
 「選抜100年 世紀の記憶」第6回は大谷翔平選手(29=ドジャース)の選抜を振り返る。昨年12月に10年総額7億ドル(決定時約1015億円)というスポーツ界史上最高額で移籍し、今や世界トッププレーヤーだが、花巻東(岩手)時代に夏1度、春1度出場した甲子園では未勝利に終わった。全国舞台で初めて「4番・投手」として出場した2012年84回大会1回戦では大阪桐蔭(大阪)に2―9と完敗。投げ合った大阪桐蔭・藤浪晋太郎投手(29=メッツ)と西谷浩一監督(54)の回想をもとに、未完だった当時の大谷に迫る。(惟任 貴信)
 12年3月21日、大会初日の第3試合。観衆2万7000人。のちに、ともに大リーグでプレーすることになる身長1メートル93の花巻東・大谷と1メートル97の大阪桐蔭・藤浪が聖地で相まみえた。1メートル90以上の先発投手同士の投げ合いは前代未聞で、両チームの投手が同一試合で150キロを計測したのは春夏の甲子園大会史上初となった。試合時間2時間26分。新時代の幕開けを予感させる両雄の激突だった。

 互いに「みちのく」と「なにわ」の冠を乗せ、「ダルビッシュ2世」の異名を取った2人。その対決に各メディアはこぞってスポットライトを当てたが、周囲の熱量に反比例するかのように、当人たちは冷静だった。藤浪が、当時の心境を率直に振り返る。

 「大谷が凄いというのは知っていました。ただ実際に見た印象は“デカいな”くらい。大谷のことより、当時の自分が一番に思っていたのは“初の全国舞台で、なんとかして花巻東に勝ちたい”ということだけでした。大谷を抑えるというのは勝つための手段の一つという認識で、それ以上でも、それ以下でもなかった」

 当然のことながら、12年前の大谷は、まだ「OHTANI」ではない。かつての江川卓(作新学院)や松坂大輔(横浜)ら高校野球史上で「怪物」と呼ばれるような存在ではなかった。だから藤浪も特段、意識はせず、試合の日を迎えていた。

 「当時で言えば“何年かに一人はいるくらいの選手”の印象。それなら、光星学院(青森)の北條(史也=元阪神)、田村(龍弘=ロッテ)の方が怖かったし、浜田(達郎=元中日)がいる愛工大名電(愛知)の方が嫌でした。九州学院(熊本)、浦和学院(埼玉)の方が難敵という印象が強かった。だから、そこまで構えて試合に臨んだ感じではなかったです」

 泰然自若で臨んだ一戦。その試合で「打者・大谷」には、後に大リーグでアジア選手史上初の本塁打王に輝く片りんを感じさせられることになる。まずは初対決の2回無死無走者だ。「正確な意図までは覚えていないですけど、スライダーを打たれたのだけは覚えています。たぶん、あの球で空振り三振を取ろうと思って投げたんだとは思いますね」

 カウント2―2。藤浪が投じた真ん中低め116キロのスライダーを泳ぎ気味に拾った大谷の打球は、右翼席で跳ねた。これには藤浪も驚くしかなかった。

 「低めの甘いところに行きましたが、いきなり本塁打にするとは思わなかったので“マジか”と。甘いとはいえ、初見でいきなり打たれたので。高校生では、まずいない。ちょっと泳いだ感じでしたけど、それをライトスタンドまで運ばれたので」

 そして、その本塁打より“凄み”を感じた打席が6回1死だ。1ボールから外角高めに投じた146キロ直球を完璧に打ち返された。結果は強烈な三塁ライナー。「本塁打よりあっちの方が凄いと思ったのは覚えています。打ち取ったと思ったボールを完璧に捉えられたので」。その年の甲子園大会で春夏連覇を達成し、阪神でも入団1年目から10勝を挙げた右腕の心胆を寒からしめた一撃に無限の可能性が詰まっていた。

 とはいえ試合自体は中盤から一方的な展開になった。大阪桐蔭が戦前のプラン通り「投手・大谷」を攻略したからだ。藤浪は言う。「打てない投手ではないと思っていました。大会前の練習試合でも80球、6回以上とか投げていなかった。だから5回までに80球を投げさせようという方針で、勝負は後半というゲームプランだったと思います。実際、その通りになりました」

 5回まで無失点も、その時点で85球を投げさせられていた大谷は6回に捉えられ、結果的には9回途中9失点で降板となった。打っても藤浪の前に3打数1安打1四球で、チームは大敗。12年前の大谷は投打いずれにも付けいる隙があった。

 日本ハムで投打二刀流を実践し、大リーグでシーズンMVP、2桁勝利&2桁本塁打、本塁打王タイトル…その後の活躍ぶりは枚挙にいとまがない。だが12年前の時点で、ここまでの未来予想図は描けなかった。あの大谷にも、未完の時代があった。今の「OHTANI」を形づくる一つの要因になったという意味でも、100周年を迎えた選抜史を彩る歴史的一戦だった。

 ◯…選抜後の大谷は夏の岩手大会準決勝・一関学院戦で160キロを計測し3季連続の甲子園出場に王手。だが決勝・盛岡大付戦では8回2/3を投げて15三振を奪いながら9安打5失点で涙をのんだ。9月にプロ志望届を提出して10月にメジャー挑戦表明も、日本ハムからドラフト1位指名を受けて翻意し12月9日に入団を決断。日本ハムでは14年に11勝、10本塁打でプロ野球史上初の「2桁勝利&2桁本塁打」。15年に最多勝、最優秀防御率、勝率第1位の3冠にも輝いた。16年には日本人最速165キロ計測。17年オフにポスティングシステムを利用し大リーグのエンゼルスに移籍した。

 移籍1年目の18年は4勝、22本塁打で新人王。9勝を挙げ、46本塁打を放った21年に日本選手2人目のシーズンMVPを受賞した。22年には15勝と34本塁打でベーブ・ルース以来104年ぶりとなる「2桁勝利&2桁本塁打」を達成。23年は44本塁打でアジア選手初の本塁打王に輝き、メジャー史上初の2年連続「2桁勝利&2桁本塁打」、同2度目の満票でのシーズンMVPを獲得。同年12月、ドジャースへ移籍した。

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