【大垣日大・阪口監督 語る(1)】「阪口の名前を捨てた」「甲子園は人生」

2023年10月02日 12:17

野球

【大垣日大・阪口監督 語る(1)】「阪口の名前を捨てた」「甲子園は人生」
勇退会見に臨んだ大垣日大・阪口慶三監督(撮影・河合 洋介) Photo By スポニチ
 高校野球の甲子園で春夏通算35度出場、歴代7位タイの通算40勝を挙げた大垣日大(岐阜)の阪口慶三監督(79)が2日、大垣市内の同校で勇退会見を開いた。健康を理由に、秋の岐阜大会敗退後の9月19日に学校側に辞意を申し入れ、了承された。「これ以上、指導者としての責任を持ってやることは不可能だと思った」となどと説明した。
 【阪口監督、語る(1)】

 ――健康面を理由に退任を決断した。
 「今年に入って疲れが取れなくなった。疲れるなど、私はいままで言ったことがなかった。子どもと一緒にグラウンド上で暴れまくり、ベンチに座ることも(監督就任から)57年間したことがなかった。同じ疲れを味わうことが指導者のマナーと思っていたが、次第にベンチに座るようになった。それからこのように声がおかしくなった。僕の持ち味は人一倍声が大きいこと。それができなくなったことが辞めるきっかけになりました」

 ――決断の時期は。
「今年に入った1月末、2月にかけてだったと思います」

 ――甲子園は今年が最後になるかもしれないと思っていたか?
 「その通りです」

 ――最後の3年間は、孫にあたる高橋慎(3年)と一緒にプレーできた。退任を決断する理由の一つになったか。
 「まさにその通りです。孫と3年間、本当に充実した毎日だった。その孫が卒業する。それが僕の気持ちを引退、勇退という考えになったことは間違いない」

 ――高橋は、甲子園で本塁打を放つなど活躍した。
 「監督が孫を特別な目で見ているのではないか…(と思われる懸念)というのが一番にあったので、できるだけグラウンドで話すのをやめようと思った。それから孫には特別な目をかけないということで、叱るならば孫を叱った方がいいということで、人一倍孫には厳しくあたった。そういう点は孫もかわいそうだなと思ったりもしました」

 ――3年間は、おじいちゃんと呼ばれなかった。
 「3年間おじいちゃんと言われたことない。寂しいです」

 ――後任は未定とのことだが候補は。
 「僕のあとをやれるのは高橋先生(副部長)。人格的にも野球の技術においても誰にもひけをとらない、素晴らしい監督になるだろうと確信している。だから高橋くんにお願いしたい。素晴らしい。間違いなくやれるでしょう」

 ――12月末まで監督の任期が残っている。
 「(監督候補の)高橋くん(副部長)のやりたいようにさせる。私がグラウンドに常時出ることは、かえってチームづくりにおいてマイナスになる。週に2、3回は顔を出すようにするが、あとは高橋くんに一切を任せても問題ない」

 ――05年に大垣日大の監督に就任し、鬼の阪口から仏になった。
 「高校野球のレベルが(違った)。天下の名門東邦高校で38年やってきた。大垣日大に来て、これが高校野球か…と。ユニホームの着こなしから(指導を)やっていった。やればやるほど選手が私から離れていく。これはいかんと。何のために大垣日大に来たのかと、強いチームをつくるためにきたのだと。それならば、阪口の名前を捨てるべきだと思った。この子に合ったレベルにあった阪口にならないといけないと。叱るより褒めることの方が大事だと思って、褒めて、褒めて、褒め殺すようにチームを自分を変えていった。それが仏の阪口になったということです」

 ――甲子園とは。
「人生そのものでしょう。寝ても覚めても野球。僕のベットの横にバットが置いてある、なぜ打てない、なぜ打たれる。夜中に起きてはバットを振る、そして目を覚まし、学校を来る。授業が終わるのを待っていられない。昼休みに呼んでバットを振らせる生活だった。甲子園は私の人生であったと思います」=(2)に続く=

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