篠山紀信氏、伝説の「サンタフェ」誕生秘話 スポニチ本紙に語っていた裏側「もう18歳だし、ヌードでも」
2024年01月05日 13:16
芸能
伝説となった「Santa Fe」について、篠山氏はスポニチ本紙の取材に対し、撮影に至った背景やその経緯を語っていた。
篠山氏は、92年公映画「豪姫」に宮沢が出演した際、撮影現場を訪れたという。そこで宮沢の母・光子さん(14年に死去)に対し、「もうりえちゃんも18になったんだし、ヌードでも撮っておいたほうがいいよなあ」と冗談交じりに雑談をしかけたことが、誕生のキッカケだという。
まさか本当にヌードの撮影ができるとは思っていなかった篠山氏は、「きれいなコだから、若いときに撮っといたほうがいいんじゃない?」と、冗談交じりに吐露。すると思いのほか光子さんがノリノリで、宮沢を「美しいものは美しいときにとるべきだ」と母自ら説得し、あの伝説の写真集誕生に至った…と明かした。
「Santa Fe」が世間に与えた衝撃は大きく、芸能界でもこの写真集のファンは多く、今でも語り継がれている。篠山氏の訃報を受け、ネット上でも「宮沢りえのヘアヌードは衝撃だった」と、「Santa Fe」を称える声が多く上がっていた。
篠山氏は早くから才能を発揮し、66年に東京国立近代美術館の「現代写真の10人」展に最年少で参加。76年にはベネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館に代表作家として選ばれた。初期の作品では「Death Valley」「Twins」「Nude」などが知られる。
勢いは増す一方で、デビューからキャロルにカメラを向け、73年には「女形・玉三郎展」で芸術選奨新人賞を受賞。75年に雑誌「GORO」の山口百恵特集で使い始めた「激写」は流行語にもなった。
60年代後半からヌード写真には定評があり、69年には沢渡らとともに全日本恥毛露出連盟(ゼンチロレン)を結成して会長に就任。91年に女優の樋口可南子をモデルにした写真集「Water Fruit 不測の事態」で事実上、陰毛を解禁させ、続く宮沢りえの「Santa Fe」でブームを巻き起こした。