正司歌江さん死去 キダ・タローら芸能界から悲しみの声続々「やっぱり同世代が亡くなるのは寂しいね」
2024年01月25日 05:25
芸能
5000曲を作曲したといわれるキダだが、最初の一曲は歌江さんが歌った。キダは元々神戸のバンドでアコーディオンを担当していたが、それでは生活していけなかった。18歳でピアノに転向し、大阪に出た。
19歳の時に難波のキャバレー「パナマウント」から店の記念曲を頼まれて初めて作曲。「バンドマスターから“歌のうまい双葉さんというホステスさんがいる。その子に歌わせる”と説明があったが、それが歌江さんだった。聴いてみて、うまかったのを覚えてるよ」と懐かしんだ。キダは伴奏にも参加し、そばで1カ月間演奏した。約20年後に歌を再現しようとしたが、譜面も残っておらず「2人とも全く覚えてなくて企画がパーになった」と笑った。
互いに有名になってからも仕事で一緒になることもあった。思い出に残るのは、大分県安心院町(現宇佐市)で情報番組のロケに行った時のこと。同地はすっぽん料理で有名で「生き血の苦手な私の前に置かれたグラスを、私の様子を察して横から手に取り、グイッと代わりに飲んでくれた」と振り返り「昔の人らしいっていえばそうなんだけど、とにかく気配りのできる人だったね」としのんだ。
喜劇俳優の大村崑(92)も「最近仲の良かった年下の方が亡くなるニュースが多く寂しい思いだが、年上の方でもやっぱり同じだね」と別れを惜しんだ。かしまし娘とは一緒に劇団を結成したり、クイズ番組の司会をするなど「同じ時代に競い合い、協力しながら世の中を笑わせてきた仲」と回想。歌江さんについては「足を悪くされて、ご主人が車いすを押して生活されていたと聞いていたので、心配していた」と話した。
思い出されるのは、10年以上前に開かれた歌江さんの金婚式に参加した時。大村は自身の出演ドラマ「赤い霊柩車」シリーズにちなみ、葬儀屋に扮して出席した。「楽屋を訪れて“あんた来てくれたんやな~”って喜んでもらった。あの笑顔は今も忘れない」としみじみと振り返った。
《若井ぼん「半分母親で…」》 60年来の付き合いだった元お笑いコンビ「若井ぼん・はやと」でレゲエアーティストの若井ぼん(79)は「僕が一番可愛がってもらってたかなあ。半分母親でお姉さんで、師匠で…。感謝の言葉しかありません」と話した。年賀状のやりとりを続けていたが、今年は歌江さんの夫から届いた。「“年賀状のやりとりを今回で最後にします”とのご連絡。心配でご主人に連絡したのですが“意識もなく、会話もできない”とのこと。スターだった方。弱った姿を見せたくないのだろうと思い、会うのを断念しました」と明かした。
▼横山ひろし(漫才師) 漫才界で先生と呼んでいたのは、かしまし先生と夢路いとし・喜味こいし先生でした。たかし・ひろしで松竹芸能からデビューさせてもらった頃、やっちゃん(横山やすし)の弟子なんやな、頑張りや、と励ましてくれた。漫才の世界では美空ひばりさんのようで近寄りがたい神様のような人でしたが、私たちには良くしてくれました。
▼桂福団治(落語家) 三代目桂春団治師匠との関係もあり弟子である私に気をかけていただき楽屋でのしきたりや芸人としてのアドバイスを頂戴したり時に厳しく指導いただき本当に感謝しております。