電撃ネットワーク・南部虎弾さん急死 72歳脳卒中 エスパー伊東さん追悼激白からわずか4日後
2024年01月22日 05:30
芸能
所属事務所やメンバーによると、19日夕方ごろまでマネジャーと連絡を取っていたが、妻由紀さんが午後11時ごろに帰宅したところ、ベッドで倒れていた南部さんを発見。意識がない状態で都内の病院へ救急搬送された。脳の出血が確認され、集中治療室(ICU)に入った。20日には静岡市でDJ1人を含むメンバー7人全員でイベントに臨む予定だったが、体調不良を理由に欠席。同日夜、由紀さんらにみとられ、息を引き取った。
残されたメンバー6人は21日、病院で無言の対面を果たした。結成時から35年ほどの時間を過ごしてきたギュウゾウ(59)は「あまりにも突然のことで状況が把握できない。悪い夢を見ているようだ」、ダンナ小柳(55)は「先の仕事が決まっていましたし、頭が真っ白」とショックをあらわにした。
会社員を経て渡仏。現地で大道芸人を見て華やかな世界に憧れた。当初は俳優志望で1980年に故黒澤明監督の「影武者」でデビュー。劇団員時代、東京・渋谷のストリップ劇場のステージに上がった際の掛け合いがウケたことを機に笑いの道に目覚めた。85年、コント集団の仲間だった肥後克広(60)、寺門ジモン(61)、上島竜兵さん(享年61)とダチョウ倶楽部を結成。初代リーダーを務めたが、87年に芸に対する方向性の違いで脱退した。
90年に電撃ネットワークを結成。当初は一発芸を盛り込んだコントを披露していたが、目からミルクを発射する過激芸が大ウケ。これがフジテレビの深夜バラエティー「オールナイトフジ」でも反響を呼び、同番組に毎週出演することでパフォーマンスがさらに過激化していった。グループとしてのネタは400近くまで膨らんだ。過激芸は「TOKYO SHOCK BOYS」として進出した海外でも人気を呼んだ。
体を張って息の長い活躍を続けた一方、17年3月には持病の糖尿病が悪化して緊急入院。一時、心不全の状態に陥った。人工透析を勧められたが、仕事を優先して拒否し続けたことで数値が悪化。19年5月に、妻をドナーとした腎臓移植手術を行った。
己の肉体を酷使し世界に“笑撃”を与え続けてきた電撃ネットワーク。「僕らは体のケアに無頓着。どれだけ充実したパフォーマンスをお客さんに見せることができたか。これが一番ですから」とギュウゾウ。電撃ネットワークは今後も活動を続ける見通し。南部さんの魂は生き続ける。
≪“笑撃”の約400種≫電撃ネットワークの過激芸は400近くある。最初のネタは鼻から牛乳を飲み、目から発射する「ミルクマン」。駆け出し時代、都内のショーパブで誕生した。風邪をひいていたダンナ小柳が楽屋ではなをかんだところ目から鼻水が飛び出した。これを見た南部さんが「牛乳が出せるんじゃないか」とアドバイス。酔客相手に披露するとコントネタで笑わなかったのが大爆笑。ここから過激芸はエスカレートしていった。
南部さんの芸では布団の真空圧縮袋に入って空気を抜く「布団圧縮袋即身仏」や、ビール缶などを額にくっつける「頭くっつき気合男」も人気。ギュウゾウにはサソリを口に入れる「サソリ男」などの持ちネタがある。
≪元第一生命営業マン≫南部 虎弾(なんぶ・とらた、本名佐藤道彦=さとう・みちひこ)1951年(昭26)7月14日生まれ、山形県鶴岡市出身。高崎経済大中退。第一生命の営業マンを経て渡仏。帰国後、コント赤信号がいるテアトル・エコーに参加。85年にダチョウ倶楽部として活動開始。87年脱退。90年に電撃ネットワークを結成。
≪三五十五さん15年肺がん死去≫電撃ネットワーク 1990年に南部さん、ギュウゾウ(59)、ダンナ小柳(55)、三五十五さん(享年52)の4人で結成。その後、今日元気(35)、ランディー・ヲ様(46)、リチャード・ジョーダン(33)が加わった。主に司会を担当していた三五十五さんが15年3月に肺がんで死去している。