【100歳 甲子園球場物語】トラック400台分の雪を搬入してスキー・ジャンプ大会 歌舞伎、映画…

2024年06月04日 07:00

野球

【100歳 甲子園球場物語】トラック400台分の雪を搬入してスキー・ジャンプ大会 歌舞伎、映画…
甲子園球場で行われた第1回全日本スキー・ジャンプ大会(1938年1月)=阪神電気鉄道提供= Photo By 提供写真
 戦前、甲子園球場では多様なイベントが行われた。歌舞伎の野外公演、映画の野外鑑賞会、歌謡ショー、仕掛け花火大会、鷹狩り、体操大会……。なかでも外野スタンドにジャンプ台を設け、雪を運び込んで開いたスキー・ジャンプ大会は大いに注目を浴びた。 (編集委員・内田 雅也)
 甲子園球場でスキー・ジャンプ大会が開催されたのは1938(昭和13)年1月9日、日曜日だった。真冬のスタンドに4万人を超える大観衆が訪れた。

 左中間スタンドには高さ30メートルとも40メートルとも伝えられた木製ジャンプ台がそびえ立ち、外野から内野にかけて雪原が広がっていた。

 大阪毎日新聞社(大毎)主催の第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会。雪に恵まれない大都市の市民にスキー競技をアピールしようと全日本スキー連盟と立案された。

 当時の甲子園球場長・石田恒信は<随分思い切った、途方もない催し>で<むちゃな話>と手製本『続・甲子園の回想』に記した。

 特に雪の買い出し、輸送が大変だった。毎日新聞長野支局員と2人で新潟県の国鉄信越本線・田口駅(現JR妙高高原駅)まで出向いた。銀世界が広がっていた。事情を聞いた駅長はさすがに驚いた。「何ですって? 甲子園……あの野球の甲子園から雪を買いに来た? 冗談でしょう。そんなばかなこと」

 半信半疑だったが、除雪できるうえ「雪は無料ですが、運賃はいただきます」と収入にもなる。貨車と作業員を手配してくれた。

 大型の貨車20両分を2晩徹夜、3日間かけて積み込んだ。厳寒のなか、長野支局から差し入れのたる酒が届き、コップ酒をあおりながらの作業だった。

 雪が満載された貨車を3日かけて国鉄西ノ宮駅(現JR西宮駅)まで輸送。駅北側の待避線にトラックを横付けし甲子園球場まで運ぶ。貨車1両でトラック20台が必要だった。貨車20両だからトラックのべ400台分である。15台のトラックで往復して運んだ。

 雪は外野席4カ所の通路に納め、鉄扉で密閉、むしろをかぶせ、塩で融解を防いだ。

 ジャンプ台は大林組が櫓(やぐら)を組んで突貫工事で造った。

 雪を敷き詰めたのは前日からの徹夜作業だった。外野からレールを敷いてトロッコで運んだ。頂上付近はそりと滑車で引き上げた。朝には滑走路と内外野着地帯をすべて3センチほどの雪で覆った。

 大会当日は心配された雨も降らず、晴れの好天だった。選手は北海道や新潟から選抜された36人が参加。36年冬季五輪出場の関口勇、宮島厳もいた。木村隆一が最長不倒27メートルを飛んで優勝している。

 石田も含め、多くの観衆は初めて見るジャンプである。<勇壮な飛躍競技><妙技に感嘆久しく>と好評だった。大会後、緩やかなゲレンデをつくり愛好者に提供した。スキー競技の普及という目的は達成した。

 大会は同年2月に後楽園球場で、翌年も両球場で開催された。

 夏に歌舞伎が行われたのは39年だった。8月26、27日の2日間、6代目・尾上菊五郎一座の公演である。二塁から外野に向けて舞台を特設。外野前方に芝生の上にむしろと座布団を敷いた特別席、後方にイス席、外野スタンドを一般席とした。

 見得(みえ)を切るための「所作台」は良質のヒノキ材約70枚を組んだ本物。東京から専門の大工5人がかけつけた。

 宣伝ポスターは「涼風と星の大劇場」と野外歌舞伎の魅力をうたっている。午後6時開場、7時開演。「操三番叟(あやつりさんばんそう)」「夜討曾我狩場曙(ようちそがかりばのあけぼの)」などを上演した。

 この舞台を再利用して開いたのが市丸、勝太郎の女性歌手2人による歌謡競演だった。朝日新聞社の主催だった。石田は<勝太郎の糸(三味線)に合わして市丸が「島の娘」を歌った時、場内破れんばかりの万雷の拍手はしばし鳴り止まず>と成功を記している。

 また当時、初夏から秋にかけての土日には野外映画上映会が開かれていた。映像を映し出す巨大スクリーンは高さ15メートル、幅17メートル。阪神電鉄の保線課、車両課の社員がレールを敷き、台車で設営した。国策映画が多かったが泉鏡花原作の『婦系図』なども上映された。

 他にも芝居博覧会、全国仕掛け花火大会、日本体操大会など、甲子園はさまざまなイベント会場として利用されていた。 =敬称略=

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