箱根駅伝を創った伝説のマラソンランナー・金栗四三とは。その功績と激動の人生を辿る

2024年01月02日 09:00

箱根駅伝を創った伝説のマラソンランナー・金栗四三とは。その功績と激動の人生を辿る
 お正月の風物詩となった「箱根駅伝」。毎年いろいろなドラマが生まれ、人々を感動させてくれますが、この駅伝は誰が始めたかご存知でしょうか。よほどの駅伝・マラソン好きしか知らないかもしれませんが、オリンピックマラソンランナー […]

 お正月の風物詩となった「箱根駅伝」。毎年いろいろなドラマが生まれ、人々を感動させてくれますが、この駅伝は誰が始めたかご存知でしょうか。よほどの駅伝・マラソン好きしか知らないかもしれませんが、オリンピックマラソンランナーとして活躍し、多くの武勇伝を持つ男「金栗四三(かなくり・しそう)」が創設者です。その激動の人生は、2019年NHK大河ドラマ『いだてん』(演じたのは中村勘九郎さん)として描かれたほど。

 金栗さんが、「東京箱根間往復大学駅伝競走(通称:箱根駅伝)」をなぜ創設したのか? その先に見えていたものはなんなのでしょう。“いだてん”金栗さんの人となりとともに、駆け抜けた道をたどります。
(写真・歴史資料協力:玉名市役所・和泉町教育委員会)

オリンピックマラソン競技を55年かけてゴールした!?

 金栗さんは、日本が初めてオリンピックに出場したときの1人です。マラソンでオリンピック3回出場経験を持ち、世界記録も3回樹立した強者です。そのため“日本マラソンの父”とも呼ばれていますが、実はオリンピック史上、「世界で最も遅いタイムの記録保持者」という伝説のランナーでもあったのです。

 ドラマは、金栗さんが初出場した1912年ストックホルムオリンピック大会で起きました。開催地までは、船や鉄道を使い約17日間かけて向かう長距離移動に環境変化による疲労が蓄積していきました。さらに競技当日は、金栗さんを送迎する車が手配できておらず、走って会場まで移動させられるという、今では考えられないような事態となりました。

 当日、最悪の状況に追い打ちをかけたのが、死者がでるほどの酷暑。さすがの金栗さんも途中で倒れ農家で介抱されていました。目を覚ましたころには競技が終了し、泣く泣く帰国の途に就いたそうです。

▲スウェーデン記者と金栗さん夫妻

 しかし、1912年当時大会側に金栗さんの棄権意思が伝わっておらず、なんと扱いは「行方不明」となっていたのです。当時、現地スウェーデンでは「消えた日本人」として話題になっていましたが、帰国した本人まで届くことはなかったようです。

 時は流れ1962年、スウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」を追って金栗さんを取材・報道しました。報道で事実を知ったスウェーデンオリンピック委員会が、1967年3月21日に行われた「オリンピック開催55周年記念祝賀行事」に金栗さんを招待します。

 金栗さんを待っていたのは「55年越しのゴールテープ」という粋なはからいでした。競技場をゆっくりと走りゴールテープを切ると、「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」(「玉名市ホームページ」より)とアナウンスされました。

 オリンピック史上最も遅いタイムでのゴールイン。最遅タイムとして記録された時間は、日本のマラソンやスポーツ向上のために金栗が駆け抜けた時間そのものでした。ゴール後に金栗さんは、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」(「玉名市ホームページ」より)と語ったそうです。

生涯で走った距離は約25万キロメートル

 金栗さんは、福岡県の県境にある熊本県玉名郡和水町という自然豊かな場所で生まれました。幼少期は、激動の人生を送ることになろうなど想像もつかないほどひ弱な子どもで、夜泣きをしては家族を困らせていたといわれています。

 1901年、10歳になった金栗さんは玉名北高等小学校に進学。自宅から学校まで往復約12キロメートルのアップダウンの多い通学路を近所の子どもたちと毎日「かけあし登校」していました。この通学路は、「金栗四三ロード」と呼ばれ、ランニングイベントなどでさまざまなランナーが走ることもあるそうです。現在はきちんと舗装されています。

▲東京高等師範学校の校庭でのトレーニング(和泉町教育委員会)

 金栗さんは運動だけでなく学業にも長けており、1910年東京高等師範学校(現在の筑波大学)に進学します。在学中も実力を発揮し、1年生の校内マラソン大会で上級生を抑え3位入賞。2年生のときには、第5回オリンピックストックホルム大会(1911年)の国際オリンピック大会選手予選会に出場し、当時の世界記録を27分上回る「2時間32分45秒」という快挙を成し遂げ優勝。そして日本が初参加したオリンピックマラソン大会に挑み、約55年でゴールという伝説が生まれたのです。

 のちに金栗さんは、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか? と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」(「玉名市ホームページ」より)と語っています。

 自身の結果を猛省した初のオリンピックのあと、悔しさからトレーニングに励みます。24歳という、アスリートとして一番脂が乗っているころに迎えた1916年第6回ベルリンオリンピック大会は、優勝を期待されていましたが、悲運にも第一次世界大戦のために中止になってしまいます。

 マラソンのほかにも、1917年に開催された日本初の駅伝とされる「奠都50周年記念東海道五十三次駅伝徒競走(京都~東京)」も走り、その後1920年第7回オリンピックアントワープ大会では2時間48分45秒の16位でフィニッシュ。1924年第8回オリンピックパリ大会には、33歳という年齢で挑戦したものの途中棄権となり、帰国後引退しました。

▲マラソンシューズの原点となった初期の「金栗足袋」

 現役選手時代自身の走りに磨きをかけるだけでなく、より速く走れるようマラソン用足袋の改良にも取り組みました。走っても擦り切れないようにゴム底をつけ「金栗足袋」を開発。その後、踵の上に留め具を付けたものから、足の甲にひもを付けたタイプに改良され、現在も使われている靴型のマラソンシューズの原型を作ったのです。この足袋を履いて生涯で約25万キロメートル、地球6周分と4分の1という、とてつもない距離を駆け抜けたのです。

箱根駅伝で世界に通用する選手を育てたい

 金栗さんは、1912年のストックホルムで途中棄権した後、1916年のベルリンを目指しながら世界に通用するランナーの育成にも取り組み始めました。

 一度に多くのマラソン選手を育成する方法としてたどり着いたのが、「駅伝」だったそうです。その後、1920年に開催した「四大専門学校対抗駅伝競走」に向け尽力します。さらに日本女子スポーツの振興にも携わり、女子テニス大会を開催するなど誰でもスポーツができるようにと日本スポーツの黎明期を支えます。

 選手引退後も「体力・気力・努力」というカナクリズム精神で、オリンピックなどの国際大会で活躍するランナー育成に貢献し続けます。その結果、多くの実績と功績が認められ、1955年スポーツ界初となる紫綬褒章を受章しました。

▲1955年紫綬褒章受章時の金栗さん

 そして、選手育成のために始めた駅伝こそ、今年で100年の歴史を重ねることになる「箱根駅伝」なのです。第80回大会からは、金栗さんの功績を讃えるために創られた「金栗四三杯」という箱根駅伝最優秀選手賞が贈られるようになりました。最初の受賞者は、学連選抜初の区間賞を受賞した筑波大学の鐘ヶ江幸治氏が選ばれました。奇しくも、金栗と同じ筑波大学出身者です。

▲最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」のカップ(和泉町教育委員会)

 このカップは、1911年金栗さんがオリンピック国内予選大会で授与された優勝カップを複製したもの。金栗さんが優勝カップを手にしてオリンピックに出場したように、「金栗四三杯」を手にした選手も世界で戦ってほしいという願いが込められているのかもしれません。“山の神”として知られる今井正人選手(順天堂大学→トヨタ自動車九州)や柏原竜二さん(東洋大学→富士通)、神野大地選手(青山学院大学→コニカミノルタ→セルソース)も受賞し、国際大会へ出場。ほかの受賞者も、マラソンやほかの種目などで国際大会へ羽ばたいています。

▲玉名高校生と金栗さん

 2020年の第96回大会では、金栗さんの母校である筑波大学が26年ぶり61回目の出場を果たしました。

 観戦するときは、ぜひ「金栗四三」という伝説のランナーの功績を頭に浮かべながら現役ランナーたちの激走を応援しましょう。その中から世界に羽ばたく次なるランナーが見えてくるかもしれません。

[写真・歴史資料協力]
・玉名市役所
・和泉町教育委員会

[関連サイト]
玉名市ホームページ
https://www.city.tamana.lg.jp/
金栗四三ミュージアムホームページ

http://www.kanakurishiso.jp/

<Text:アート・サプライ/Photo:玉名市役所・和泉町教育委員会提供>

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