エンゼルス大谷の“こだわり” 「100%」発揮できず“今季終戦”決断か MLB担当記者が見解

2023年09月17日 02:30

野球

エンゼルス大谷の“こだわり” 「100%」発揮できず“今季終戦”決断か MLB担当記者が見解
エンゼルスの大谷翔平(AP) Photo By AP
 右脇腹痛から打者復帰目前だったはずのエンゼルス・大谷のロッカーは、主を失ったかのようだった。なぜこのタイミングで、この結末の予兆はあったのか――。日本ハム時代の13年冬から大谷を本格取材するスポニチ本紙MLB担当の柳原直之記者(38)が決断の背景に迫った。
 キーワードは「100%の強度」だ。4日の試合前の打撃練習で右脇腹を痛めて以降、出場の可否は大谷に一任されていた。フィル・ネビン監督も「彼が“準備は整った”と言ってきたらプレーさせる」と語るなど、13日の時点ではこの日のタイガース戦での復帰を示唆していた。

 ただ、回復は思うように進まなかった。11日のマリナーズ戦に至っては一度は先発が発表されながら、大谷自身が「今日はダメだ」と自ら先発回避を申告。一時は軽症と発表された右脇腹の痛みが引かなかったのだろう。

 8月25日付本紙で「一日でも早い二刀流での完全復活を目指して、シーズン中に手術に踏み切る可能性も捨てきれない」と記したように、日本選手初の本塁打王にそれほどこだわっていたとは思えない。むしろ、打者として今季終了の要因になったのは「100%の強度」でスイングができなかったことではないか。周囲を驚かせた突然の幕切れも、これまで長年にわたり取材を重ねてきた大谷の考えに寄り添えば、想定しうる事態だった。

 もちろん、投手としても、大谷はこの「100%の強度」を最重要視している。最初の右肘じん帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を発表した18年9月25日。決断理由を「自分の100%のものが出せるのであれば(手術を)やらない方がいいと思うんですけど、そうではないと思った」と語った。同年、診断日の9月5日から決断まで要した期間が20日間だったのに対し、今回は診断からこの日まで24日間。前回と比較すれば、右肘の状態とじっくり見つめ合って決意を固めたと考えた方が理にかなう。

 一つの節目も重なった。エリミネーションナンバーが「0」となった日のロッカー整理。最後まで望みを捨てずにプレーしたかったことに疑う余地はなく、地区優勝の完全消滅という事実が決断を後押ししたと見る。

 18年の大谷はレギュラーシーズン翌日の10月1日に右肘のトミー・ジョン手術を受け、打者復帰は翌19年5月7日。2度目の同手術は1回目よりもリハビリ期間を長く要するといわれている。ネズ・バレロ代理人が見通す24年開幕の打者出場は現実的に厳しい。ただし、二刀流として25年の開幕に間に合うことは大谷自身が分かっているはずだ。

 ≪刻み込まれたエンゼルスでの6年間≫今オフFAになる大谷は、移籍を決断すれば6年間在籍したエンゼルスのユニホーム姿は見納めとなる。

 本拠地エンゼルスタジアムでの入団会見は17年12月9日。ここからメジャーでの二刀流挑戦が始まったが、道のりは平たんではなかった。18年は4勝、22本塁打で新人王。しかし同年10月に右肘じん帯再建手術(通称トミー・ジョン手術)を受けて19年は投手として登板なし。19年9月には左膝の手術を受けた。

 二刀流として華々しく活躍したのは21年からの3年間。記念碑的な試合は同年4月4日のホワイトソックス戦だ。大谷は「2番・投手」でメジャーで自身初めて投打で同時出場。本塁打も放った。同年はMVP。22年にはベーブ・ルース以来104年ぶりの「2桁勝利&2桁本塁打」を達成した。数々の伝説を残したエ軍での6年間は、ファンの脳裏に深く刻み込まれている。

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